2016年2月7日日曜日

約束と思考と体得について

2016年も瞬く間に2月です。現在ソケリッサ!の新作公演を予定しており、場所の使用許可が下りれば4月後半に開催することができます。状況は今月内にお知らせできます。 

現在練習に参加しているメンバーは3名、ほか2~3人の方の出入りがある状況です。参加意思を確認しても、当然現状の暮らしが優先なので、なかなか連続して参加することができない方、生活環境でのストレスで落ち着いて踊りに身を委ねることが難しいように思える方もいます。毎回のことですが本番は何人出演するのかはわかりません。
「公演でますか?」と確認ごとのように聞くこともせず、来ているメンバーの踊りで構成をしていく作業です。今まで様々なおじさんたちと交流がありましたが、不安定な生活状況おいいて「絶対~する」というような、未来の約束の言葉を求めることはもはや意味がなく使うことはなくなりました。でもそれは会社のような組織でもない我々の関係においては咎めるようなことはしません。まして僕自身も思い描いていた人生を歩んでおらず、変化し続ける未来を今からカタチに当てはめようとすること自体がどうも不自然であり、また瞬間を生きることに重きを置く我々の踊るという行為においては、未来の決まりはあまり重要にしていません。偶然性含め、参加する人間のいろいろな要素が一つの固まりのようになるのが面白いように思っています。

最近いろいろ観察をしていて気づいたのですが、僕は人といるときや練習などの現場ではほとんどその場の体の反応のようなもので過ごしているように感じます。どうやら人といる仕事や日常生活は、頭での思考はもちろんあれども創造性にはあまり傾倒していないと感じます。その後、ぼんやりとコーヒーを飲んでいるとき、風呂やランニングをしているときなど、一人になったときにむくむく創造力が働き始め、アイデアが浮かび、体の反応の答えもやもやとしたものがふと言語化できる瞬間に出会います。そしてそこで生まれたものを形として準備をし、また現場に持っていって実践し体に積み上げている(体得している)ような過ごし方です。ワークショップや時にトークにおいて人前に立つことがありますが頭だけで考えて準備をしていざ人前に立っても、すらすらと表に出ていくのは体に詰まっている経験です。人前に立つということは、観客の様子や、瞬間の言葉の選び方などいろいろなところに意識が向きます。人が同時進行で意識を向けられるのはせいぜい2つ。やはり頼りになるのは体得したものでした。

思考より体得が先、その流れが自然なのかなと思っています。特に衝撃的な体験の瞬間には整理などできず、僕のなかにある言葉ですぐ説明できることができません。でも体は終始いろんなことを感じ学んで考えています。その場で言葉にできなくてもいいのです。そしてふと一人で思考を巡らせ過去の体の反応の問いが導き出される瞬間に会った時にはよも言えぬ躍動が押し寄せます。
強度のあるものはそうやってやっと生まれるように感じます。
もちろんこれは現在の僕の感覚です。もしかすればそのうち全く違うことを述べているかもしれませんが。

ソケリッサ!の日常が詰まった体、ぜご覧下さい。