太陽がさんさんと差し込み
部屋の窓辺にある桜の植木は、
花をちらほら咲かせ始めた。
なんだか桜が花を咲かせる様子は、
人の出産から成長への過程のようである。
実はとても簡単に見える開花の作業は、
硬い木の枝に強烈な気合でつぼみを噴出し、
聞こえない怒涛の産声と共に誕生しているのである。
直径20センチの鉢植えに、複雑に湾曲した
すりこぎ幅の幹が30センチ、
その幹から四方へ10本程の小枝が長短伸びる。
薄ピンクに開いた花は、
根元近くに大小五点、上端に二点。
そして、その輝かしい生誕の幹に、
身体をこすり付けて飼い猫のハナは横切り、
力つよく咲いたばかりの美しい桜の花は、
いとも簡単にポロリと床に落ちる。
さて、今年もソケリッサ!(※)の練習が始まった。
先日1月末、前回出演したメンバーの
おじさん達5人と意気揚々顔を合わせた。
その日は練習初めであったので、
まずは今年の活動予定をきめる。
ソケリッサ!の公演は、昨年、一昨年と2度行なっている、
「昨年の公演はどうでしたか?」改めて聞いてみた。
「紙ふぶきが苦しい。」とメンバーの一人。
昨年の本番、大量の紙ふぶきを撒き散らすシーンがあり、
その中央でおじさん達は歌を歌い、セリフを叫ぶ。
「あれは大変で、前が見えないから、今後はやめましょう。」とのこと。
別のおじさんは「入れ歯が落っこちたのはばれなかったけどな、ハハ。」
「ストーリーのある人情ものなんかどう?」「次は是非大劇場で!」・・
とこんな感じである。
3度目の公演ともなると、それぞれ演出にも意見を出し始めた。
自分のやりたいこと、もちろん単なる思いつきの意見や、
お客さんの観想を受けての意見、皆から様々出て来た。
無口な初回公演の練習を思い出す・・
比べれば今や、おじさん達がひとまわり大きく見えてくる。
土建屋だった、通称”親方”は
「親のいない子供達のいる施設で、
見せるのもいいんじゃねえか・・あと温泉とか。」
いまいちせりふのバランスが取れていない気はするが、
少なくとも前半はすばらしい。
舞台は、今年の夏に東京公演と
大阪公演がやりたいと思っていたが、
多くの人に、見て知ってもらう方法としても路上は良い。
ソケリッサ!に土の匂いは合う。
いずれは必ずやりたかった事である。
路上に会社や、学校や公園他、どこでもやれたらそれは面白い。
おじさん達の意見も「あの公園はいい。」「都庁前の広場は広い。」等、
話は展開、舞台公演はひとまず先に、
年末か来年頭にしようと意見を統一した。
これからはまず春先の路上に向け、練習である。
・・だがここですんなりとは行かない。
実はその次の練習日、集まったのは2人であった。
話し合いをしたメンバー5人のうち3人は、
来れなくなったのである。
まず一人は掃除の仕事を朝5時から毎日することになり、
体力に不安があるので、しばらくは仕事に専念することに。
路上の冬は当然疲労が溜まる。
今回は仕方ない、もちろん健康は第一である。
もう一人は酒を飲んで、酔った状態での練習参加だったので、
これは問題あり、 一度しばらく休んでもらう事に。
前から酒好きで、いつもは終わって飲むのを
楽しみにしていたのだが・・
もう一人は右足の付け根がしびれ、
歩けない状況に・・しばらく療養することに。
その歩けない”トミさん”は現在68才、
練習をいつも楽しみにして、練習期間が開くと、
「次回はいつか?」と連絡をしてくる。常に熱意を持ち、
表現力もすばらしい。
一昨年にはお金をため、路上からアパートに移り、
今は生活保護で生計を立てている。
実はトミさんは、子供の頃ヤギに乗って遊び、
転落して頭を打ち、成人後に後遺症でしびれが現れ、
手術をしたという過去がある。
心配したのだが、検査の結果そこからのしびれではなく、
足の付け根に水がたまったとの事・・
見舞いに行くとちょうどご飯を食べた後で、
魚の缶詰とプラスチックの皿にご飯粒が残っていた。
見回すと同じようなゴミがコンビ二袋につまっている。
あまりバランスが良いと思えない食事を
一人で食べている姿を想像してしまう。
ここ最近はゆっくり歩き公園へ散歩に
行けるまでなったと話していた。
「いやーハハハ、早く復活し、又戻ります。」
路上で折れなかった精神力は、そう簡単に萎れない・・。
出来れば全員続けて次回も邁進したいが問屋は卸さない。
ソケリッサ!は昨年の3月から
しばらく活動をしていなかったものの、
興味を持ち、取材等ときおり
連絡をいただけることはうれしく有り難い。
先日もある劇場関係者が練習見学に見え、
おじさん共話しをする機会があった。
自分「・・ソケリッサ!の始めた頃、
おじさん達は大人しかったのですが、
今では率直に意見を言ってくれたりするように・・
肉体表現をたくさんの人に見せて、
伝えようとする意識が大きくなってきたのかも知れません。」
「・・何のためにソケリッサ!に参加していますか?」
”親方”「うーん、おれは健康のためだ。」
親のいない子供達のため、はどこかへ
しかし確かにその通り、健康は一番大事である。
それが言える事はすばらしい。
苦労して練り上げたもの・・芸術でも常識でも、
それらが完成した瞬間にそれをあっさり破壊してしまう潔さ。
おじさん達と作り上げる芸術は、底知れぬ何かが詰まっている・・
と思ってしまうのである。
続きは次回に・・
※
ソケリッサは「前進する」といったイメージの造語です。
ホームレス境遇者が、ライトを浴び人前に立ち踊ると
どのような表現をするのか、意識や骨格から何が出てくるのか、
又、一人の表現者として、自分が同じ場所に立つ場合、存在はどうあるのか・・
この思いから始まったこの企画は07年の1月に第一回公演、
08年3月に第二回公演を終えました。
現在ソケリッサ!の運営を手伝っていただける方を募集しています。
アオキ裕キ
問合せ先 ビッグイシュー基金
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
2009年2月18日水曜日
2009年1月21日水曜日
家族愛
新年明けましておめでとうございます。
本年もいっそうの御愛顧よろしくお願いします。
今年は正月の話から
さて、一年で国民が最も幸せを願う、縁起エネルギー溢れる正月、
そしてそこからそれぞれの日常にもどっていく過程、
この一連の感覚は自分の好きな時間である。
休みが長くなればそれだけ身体もだるくなり、
重い腰を上げ、日常モードに戻さなくては・・と一般論に思うかもしれないが、
実は5日間ほど正月を過ごした身体は、とてもリラックスした状態であり、
休み明けの踊りは、開放的に思考と身体が使える最高状態である。
新年の希望を抱き、緩んだ思考と身体、
この状況が保てれば人は病に伏せる確立が減るような気がするのだが・・
しかし残念、どうやら逆が常になっているのである。
初詣は高尾山へ行った。
頂上近い薬王院有喜寺までは二人乗りリフトとケーブルカーが設置されており、
リフトに関しては全長872メートル 、山上駅まで約12分と記されてある。
目的地は山上よりさらに20~30分ほど歩く。
もちろんふもとより歩いて登りお参りをする人も多い。
自分も過去一度歩いたのだが、次の日見事に筋肉痛に苦しんだ。
歩きだと約1時間半。本来はそうかんたんに目的地に行けない事に意味があり、
そこに御利益もありそうなのだが、自分は楽をしてリフトに乗る。
薬王院有喜寺HPによると1260余年前の天平16年(744)に”開山”された。とある、
つまり山頂の建物だけではなく、山自体が信仰対象であり神様なのである。
自然や物を大事にし、自然とともに暮らすという古人の発想は素晴らしい。
よく岩や巨木などに注連縄(しめなわ)が巻かれたりしている光景も同じく、
自然のなかに神様が宿るという事なのである。
そしていわゆるその神の領域を、現在参拝者はリフトを使い、
楽をして幸せそうに登る訳であり、
ある意味これは贅沢なのか愚行か本質はよくわからなくなる。
とにかく今年は快晴で、緑溢れるふもとから都心までリフトより一望出来た。
リフトから降りて、甘酒やお団子の溢れる山道を歩き目的地に着く。
神前にて手を合わす。
昨年末「家族愛」という作品を作った。
出演者は自分の生徒達中心で、小学生から主婦までと年齢層は幅広い、
衣装は白Tシャツ。
胸にはそれぞれ 子供 おじいさん サラリーマン 母 中学生 三才
アメリカ人 となりの人 婦人会役員会長 にわとり 木・・
小学生だろうがおじいさんだったり、サラリーマンだったり、日常や年齢等関係なく、
出演者それぞれの書いた習字でプリントしてある。
今回様々な家族形態をシャッフルしたかったのである。
つまり舞台上では”子供”とプリントしてある主婦と、
”サラリーマン”の小学生が一緒に踊り表現をするという、
文章上ややこしい関係が繰り広げられるのである。
組み合わせや、表現形式で、見ていると様々な景色が広がってくる。
作品制作は潤滑で、出演者は懸命に表現に徹し、
それぞれの家族の捉え方も浮かんできた。
ここで昨年のインドでの話。
ブッダガヤでお経のCDを売っていた少年、
バラナシでの花売りの少女達、父親の土産店に盛んに誘う少年、
彼らは皆10代そこそこで、対等に英語で話しかけ値段交渉にも
大人顔負けで応じる子供はたくさんいた。
必死にお金を稼ごうとしているのである。
彼らは皆、親のため、家族の生活のために
働いていると当たり前のように話す。
家族愛である。
タクシーや物売りのおじさんは、
あどけなく笑いながら平気で10倍もの金額を提示する。
子供で大人、大人で子供、別に何でもいいのである。
牛も道を歩き、サルも町にいて良いのである。
カテゴリーとはなんだろうと感じた。
整理も程ほどにしなければならない。
さもなくば何もかも名詞で分類し、
名詞の優越で、その価値も決めてしまうことになる。
本質は消え行くのである。
ちなみに自分の胸のプリントは”さる”であった
さて舞台の方はおかげさまで満席となり、
見に来ていただいた子供から、お年寄りまで、
楽しめたと、暖かい感想をたくさんいただく事が出来た。
「ソケリッサ!」のおじさん5名も皆来てくれた。
現状3名はまだ路上で寝ている暮らしである。
差し入れにおじさん達はどら焼きをくれた。
有名銘柄で8個入り、何千円かはするはずである。
このどら焼きは格別おいしかった。
それぞれの家があり、家族があり、暮らしがある。
観客も出演者も、その宴の後現実の家に帰って行く。
自分の芸術活動が成り立っているのは
本当にたくさんの方々のおかげであり、感謝しきれない。
このまま甘んじていれば地獄行きは確実である。
神前に手を合わせ、顔を上げた。
不況ということもあり今年は昨年よりも参拝者は多い。
子供の頃は、思いつく願い事を片っ端から並べて、
よく長い時間手を合わせていた。
今では基本的に時間短縮、
さっぱり感謝と無心で手を合わすことが多いのだが・・
今回は、家族の幸せである。
帰りもリフトに乗った。
さて今年もソケリッサが始まる。詳細は又次回に・・
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
本年もいっそうの御愛顧よろしくお願いします。
今年は正月の話から
さて、一年で国民が最も幸せを願う、縁起エネルギー溢れる正月、
そしてそこからそれぞれの日常にもどっていく過程、
この一連の感覚は自分の好きな時間である。
休みが長くなればそれだけ身体もだるくなり、
重い腰を上げ、日常モードに戻さなくては・・と一般論に思うかもしれないが、
実は5日間ほど正月を過ごした身体は、とてもリラックスした状態であり、
休み明けの踊りは、開放的に思考と身体が使える最高状態である。
新年の希望を抱き、緩んだ思考と身体、
この状況が保てれば人は病に伏せる確立が減るような気がするのだが・・
しかし残念、どうやら逆が常になっているのである。
初詣は高尾山へ行った。
頂上近い薬王院有喜寺までは二人乗りリフトとケーブルカーが設置されており、
リフトに関しては全長872メートル 、山上駅まで約12分と記されてある。
目的地は山上よりさらに20~30分ほど歩く。
もちろんふもとより歩いて登りお参りをする人も多い。
自分も過去一度歩いたのだが、次の日見事に筋肉痛に苦しんだ。
歩きだと約1時間半。本来はそうかんたんに目的地に行けない事に意味があり、
そこに御利益もありそうなのだが、自分は楽をしてリフトに乗る。
薬王院有喜寺HPによると1260余年前の天平16年(744)に”開山”された。とある、
つまり山頂の建物だけではなく、山自体が信仰対象であり神様なのである。
自然や物を大事にし、自然とともに暮らすという古人の発想は素晴らしい。
よく岩や巨木などに注連縄(しめなわ)が巻かれたりしている光景も同じく、
自然のなかに神様が宿るという事なのである。
そしていわゆるその神の領域を、現在参拝者はリフトを使い、
楽をして幸せそうに登る訳であり、
ある意味これは贅沢なのか愚行か本質はよくわからなくなる。
とにかく今年は快晴で、緑溢れるふもとから都心までリフトより一望出来た。
リフトから降りて、甘酒やお団子の溢れる山道を歩き目的地に着く。
神前にて手を合わす。
昨年末「家族愛」という作品を作った。
出演者は自分の生徒達中心で、小学生から主婦までと年齢層は幅広い、
衣装は白Tシャツ。
胸にはそれぞれ 子供 おじいさん サラリーマン 母 中学生 三才
アメリカ人 となりの人 婦人会役員会長 にわとり 木・・
小学生だろうがおじいさんだったり、サラリーマンだったり、日常や年齢等関係なく、
出演者それぞれの書いた習字でプリントしてある。
今回様々な家族形態をシャッフルしたかったのである。
つまり舞台上では”子供”とプリントしてある主婦と、
”サラリーマン”の小学生が一緒に踊り表現をするという、
文章上ややこしい関係が繰り広げられるのである。
組み合わせや、表現形式で、見ていると様々な景色が広がってくる。
作品制作は潤滑で、出演者は懸命に表現に徹し、
それぞれの家族の捉え方も浮かんできた。
ここで昨年のインドでの話。
ブッダガヤでお経のCDを売っていた少年、
バラナシでの花売りの少女達、父親の土産店に盛んに誘う少年、
彼らは皆10代そこそこで、対等に英語で話しかけ値段交渉にも
大人顔負けで応じる子供はたくさんいた。
必死にお金を稼ごうとしているのである。
彼らは皆、親のため、家族の生活のために
働いていると当たり前のように話す。
家族愛である。
タクシーや物売りのおじさんは、
あどけなく笑いながら平気で10倍もの金額を提示する。
子供で大人、大人で子供、別に何でもいいのである。
牛も道を歩き、サルも町にいて良いのである。
カテゴリーとはなんだろうと感じた。
整理も程ほどにしなければならない。
さもなくば何もかも名詞で分類し、
名詞の優越で、その価値も決めてしまうことになる。
本質は消え行くのである。
ちなみに自分の胸のプリントは”さる”であった
さて舞台の方はおかげさまで満席となり、
見に来ていただいた子供から、お年寄りまで、
楽しめたと、暖かい感想をたくさんいただく事が出来た。
「ソケリッサ!」のおじさん5名も皆来てくれた。
現状3名はまだ路上で寝ている暮らしである。
差し入れにおじさん達はどら焼きをくれた。
有名銘柄で8個入り、何千円かはするはずである。
このどら焼きは格別おいしかった。
それぞれの家があり、家族があり、暮らしがある。
観客も出演者も、その宴の後現実の家に帰って行く。
自分の芸術活動が成り立っているのは
本当にたくさんの方々のおかげであり、感謝しきれない。
このまま甘んじていれば地獄行きは確実である。
神前に手を合わせ、顔を上げた。
不況ということもあり今年は昨年よりも参拝者は多い。
子供の頃は、思いつく願い事を片っ端から並べて、
よく長い時間手を合わせていた。
今では基本的に時間短縮、
さっぱり感謝と無心で手を合わすことが多いのだが・・
今回は、家族の幸せである。
帰りもリフトに乗った。
さて今年もソケリッサが始まる。詳細は又次回に・・
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
2008年12月17日水曜日
秒魂(びょうたま)
我が家より駅に向かう道の途中、障害物もなく、大きく富士山の見える場所がある。
晴れた日は最高で、壮大ですばらしい景色を楽しめる。
壮観である。
富士山を嫌いな日本人はいるのであろうか・・とふと思う。
今回はCM振付の話。
先日久々にCMの撮影現場に行った。
OA前なので詳しくは書けないが、化粧品関連の商品CMである。
去年は、CM、プロモーションビデオ等、マスコミ関連の振付は10数本。
しかし今年は初マスコミ関連の仕事であった。
もちろん単に売れっ子のCM振付師ではないといえば、
それで終わってしまうのだが、舞台公演等先に決まった仕事があり、
依頼があっても出来ず今年は何度か泣く泣く断ってしまっていた。
顔見知りでない、初めて一緒に仕事をするCMの監督さんや
制作会社の場合、一度断ると依頼は遠のく事は当然であり、
ましてやまだ補助金や、スポンサーもまだほとんど付いていない
「ソケリッサ!」では、マスコミ関連の仕事がある場合とくらべると、
大きな収入の差はある事は確かである。
とにかく声をかけてもらいながら断ることは
まったく申し訳ないことであり、心苦しさは残る・・。
どんな些細な仕事であれ、指名される事はありがたい。
書類や作品を期日までに仕上げる等ではなく
そこに自身がいる事が必要である。
本質を求めると、踊りは肉体が現場にいないと成立しない。
効率は良いとはいえないのである、そこが厄介でもあり、
よくいえば儚い。
さて今回のCMの話に戻る、
事前に絵コンテというコマ割された流れのイメージを
絵にしたものが送られて来るが、
今回は打ち合わせもすべて当日の現場である。
この作業パターンも様々で、内容によれば、
前もって監督と打ち合わせをして、振り付けを作って臨む事や、
タレントやダンサーが数回練習、又、特訓を行ない撮影に臨む場合もある。
場所は撮影所。監督、製作、プロデューサー、撮影、
大道具、小道具、美術、衣装、メイク、照明、録音、助監督、クライアント・・
思いつくだけでもこれほどの職種があり、かなりの大人数であり、
映画の撮影とまず変わらない規模である。
お互い顔見知りの場合もあるが、この日まったく初めて会う場合の方が多い。
そこでひとつの作品を作り上げるのである。
監督と挨拶をしてタレントの入る前に打ち合わせをする。
出演者はタレントさん1名、モデルさん3名である。
タレントが商品をかかげモデルが後方に位置しポーズを決める。
ここで自分は何をするか・・商品を持つタレントの商品の持ち方から、
モデルを含んだバランス。
秒数にすれば1~3秒の動きを数カットである。
タレントの立ち方や振り向き方、
そこでの商品の見え方等を数秒におさめるのである。
1秒は短いと思うかもしれないが、手を上げるなり、
横向くなりには結構充分で、画面の1秒は侮れない。
いわゆる踊りでないと見えてしまう動きも、
実は振り付けや監修がCMにはあるのである。
監督との打ち合わせで、まず動きを作る、
ここでは自分の感覚が大きく作用する。
監督のイメージ、商品の見え方、CMコンセプト等。
そこをしっかり踏まえた上で動きを見つけるのである。
例えば女性をターゲットにした商品なら、
力強い男性的な動きをしない、
しかしあえて女性的でない方が面白いのかもしれない・・
又、人間らしくない動きでシャープな商品が見えたり、
又、見た人が真似をしたくなる動きであれば
それだけ商品のネームバリューにも関わるかもしれない
タレントのイメージから逆にシンプルも面白い・・
きっと頭の中は瞬間にこのような感じである。
だが考え込まず1分もしないで作る。
実際監督が気に入っても、タレント側の話し合いが必要になる。
出来ない場合、不得意な身体の使い方では無理が判る。
その場合次の動きである。これも数秒で決めるのが良い。
今回も事前に決めた動きをやめて、違う見せ方にして、
本人の得意な身体の流れを利用し作り変えた。
自分も妥協せず、良い動きでタレントのエネルギーは
格段増えたのではあるが、ここは結構核となる部分で、
こちらの提示する動きでないと全くつまらない時もある。
身体を動かすことに抵抗がある場合、
見たことのある動きに収まる傾向がある。
初めて16年前に某テレビ局のCM振り付けをした時、
綿密に作り上げて用意をした振り付け以外を現場で
監督に求められた時に、20分ほど考え込んでしまった思い出がある。
その時は踊り手によって動きを変える、
柔軟な考え方が全く出来なかった。
現場は自分を待つわけである・・
その苦い経験は今に大きく影響している。
最近その監督からは2度の依頼があり、それは感激であった。
もちろん当時より成長は見せられたかと思うのだが・・
とにかく現場状況での集中力が必要だが、
瞬間に作り出す作業は面白い。
その作業を数秒に凝縮し、
そこに自分の色や痕跡も必ず入れ込んでいくのである。
さらに感服するのはスタッフの手際の良さ、
本当に自分の仕事に誇りを持ち楽しんでいる職人である。
商品やタレントがとにかく最高に見える為、
よくするため全員が魂を注ぐのである。
世の中で流行っている事を取り入れるようでは、
あまり良い結果を生むとは思えない。
やはりそのCM自体が新しい流れを作り出すべきであり、
いかに限られた制約と数秒間で何かが発揮できるかどうかが大事だろう。
テレビ画面からどのくらいのエネルギーが届くのか・・
恐らく数秒の裏ではたくさんの熱意が・・
なんていちいち思わないし、
興味がなければチャンネルを変える瞬間でもある。
しかしそこでいかに社会が興味を引くか、
大人たちは集まって数秒の瞬間の為に熱く励むのである。
この時間の使い方、効率の追求は、
今の社会全体の時間の使い方に似ているような気がする。
ただちょっと違うのは、それぞれが向けている
エネルギーの方向だけかもしれない。
そういえば昔のテレビで、CM中チャンネルを勢いよく変えて、
ぽろっとダイヤルが取れてしまった事があった・・
今回はこの辺で・・
告知
■「魔法遣いに大切なこと」
中原俊監督 山下リオ主演
劇中振付けしたので映画内容含め是非ご覧ください。
12月20日公開予定。
■「家族愛~カゾクアイ~」
企画 演出 出演 アオキ裕キ
自分の教えている子供達と作品を作ったので興味のある方は御観劇下さい。
日時:12月25日(木)19時~(開場は30分前)
開場:町田フォーラムホール
チケット:2000円
パフォーマンス
石崎珠愛 伊地知恵実 今井あかね 大橋知佳 岡純子
岡田夏海 落合あずさ 小宮山愛梨 渋谷里音 杉山優奈
須原葉子 土谷咲子 露木菜々子 仲原舞 西島花純
松岡広大 松田璃紗子 /ROCKy 瀬戸カオリ 小倉圭子 小倉誠
問合せ:ダンススタジオウップス 042-726-8788
インドでの映像とトークあり。
家族で楽しめる作品となっています。
まだ若干のチケットはあります、是非お早めにお求め下さい。
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
晴れた日は最高で、壮大ですばらしい景色を楽しめる。
壮観である。
富士山を嫌いな日本人はいるのであろうか・・とふと思う。
今回はCM振付の話。
先日久々にCMの撮影現場に行った。
OA前なので詳しくは書けないが、化粧品関連の商品CMである。
去年は、CM、プロモーションビデオ等、マスコミ関連の振付は10数本。
しかし今年は初マスコミ関連の仕事であった。
もちろん単に売れっ子のCM振付師ではないといえば、
それで終わってしまうのだが、舞台公演等先に決まった仕事があり、
依頼があっても出来ず今年は何度か泣く泣く断ってしまっていた。
顔見知りでない、初めて一緒に仕事をするCMの監督さんや
制作会社の場合、一度断ると依頼は遠のく事は当然であり、
ましてやまだ補助金や、スポンサーもまだほとんど付いていない
「ソケリッサ!」では、マスコミ関連の仕事がある場合とくらべると、
大きな収入の差はある事は確かである。
とにかく声をかけてもらいながら断ることは
まったく申し訳ないことであり、心苦しさは残る・・。
どんな些細な仕事であれ、指名される事はありがたい。
書類や作品を期日までに仕上げる等ではなく
そこに自身がいる事が必要である。
本質を求めると、踊りは肉体が現場にいないと成立しない。
効率は良いとはいえないのである、そこが厄介でもあり、
よくいえば儚い。
さて今回のCMの話に戻る、
事前に絵コンテというコマ割された流れのイメージを
絵にしたものが送られて来るが、
今回は打ち合わせもすべて当日の現場である。
この作業パターンも様々で、内容によれば、
前もって監督と打ち合わせをして、振り付けを作って臨む事や、
タレントやダンサーが数回練習、又、特訓を行ない撮影に臨む場合もある。
場所は撮影所。監督、製作、プロデューサー、撮影、
大道具、小道具、美術、衣装、メイク、照明、録音、助監督、クライアント・・
思いつくだけでもこれほどの職種があり、かなりの大人数であり、
映画の撮影とまず変わらない規模である。
お互い顔見知りの場合もあるが、この日まったく初めて会う場合の方が多い。
そこでひとつの作品を作り上げるのである。
監督と挨拶をしてタレントの入る前に打ち合わせをする。
出演者はタレントさん1名、モデルさん3名である。
タレントが商品をかかげモデルが後方に位置しポーズを決める。
ここで自分は何をするか・・商品を持つタレントの商品の持ち方から、
モデルを含んだバランス。
秒数にすれば1~3秒の動きを数カットである。
タレントの立ち方や振り向き方、
そこでの商品の見え方等を数秒におさめるのである。
1秒は短いと思うかもしれないが、手を上げるなり、
横向くなりには結構充分で、画面の1秒は侮れない。
いわゆる踊りでないと見えてしまう動きも、
実は振り付けや監修がCMにはあるのである。
監督との打ち合わせで、まず動きを作る、
ここでは自分の感覚が大きく作用する。
監督のイメージ、商品の見え方、CMコンセプト等。
そこをしっかり踏まえた上で動きを見つけるのである。
例えば女性をターゲットにした商品なら、
力強い男性的な動きをしない、
しかしあえて女性的でない方が面白いのかもしれない・・
又、人間らしくない動きでシャープな商品が見えたり、
又、見た人が真似をしたくなる動きであれば
それだけ商品のネームバリューにも関わるかもしれない
タレントのイメージから逆にシンプルも面白い・・
きっと頭の中は瞬間にこのような感じである。
だが考え込まず1分もしないで作る。
実際監督が気に入っても、タレント側の話し合いが必要になる。
出来ない場合、不得意な身体の使い方では無理が判る。
その場合次の動きである。これも数秒で決めるのが良い。
今回も事前に決めた動きをやめて、違う見せ方にして、
本人の得意な身体の流れを利用し作り変えた。
自分も妥協せず、良い動きでタレントのエネルギーは
格段増えたのではあるが、ここは結構核となる部分で、
こちらの提示する動きでないと全くつまらない時もある。
身体を動かすことに抵抗がある場合、
見たことのある動きに収まる傾向がある。
初めて16年前に某テレビ局のCM振り付けをした時、
綿密に作り上げて用意をした振り付け以外を現場で
監督に求められた時に、20分ほど考え込んでしまった思い出がある。
その時は踊り手によって動きを変える、
柔軟な考え方が全く出来なかった。
現場は自分を待つわけである・・
その苦い経験は今に大きく影響している。
最近その監督からは2度の依頼があり、それは感激であった。
もちろん当時より成長は見せられたかと思うのだが・・
とにかく現場状況での集中力が必要だが、
瞬間に作り出す作業は面白い。
その作業を数秒に凝縮し、
そこに自分の色や痕跡も必ず入れ込んでいくのである。
さらに感服するのはスタッフの手際の良さ、
本当に自分の仕事に誇りを持ち楽しんでいる職人である。
商品やタレントがとにかく最高に見える為、
よくするため全員が魂を注ぐのである。
世の中で流行っている事を取り入れるようでは、
あまり良い結果を生むとは思えない。
やはりそのCM自体が新しい流れを作り出すべきであり、
いかに限られた制約と数秒間で何かが発揮できるかどうかが大事だろう。
テレビ画面からどのくらいのエネルギーが届くのか・・
恐らく数秒の裏ではたくさんの熱意が・・
なんていちいち思わないし、
興味がなければチャンネルを変える瞬間でもある。
しかしそこでいかに社会が興味を引くか、
大人たちは集まって数秒の瞬間の為に熱く励むのである。
この時間の使い方、効率の追求は、
今の社会全体の時間の使い方に似ているような気がする。
ただちょっと違うのは、それぞれが向けている
エネルギーの方向だけかもしれない。
そういえば昔のテレビで、CM中チャンネルを勢いよく変えて、
ぽろっとダイヤルが取れてしまった事があった・・
今回はこの辺で・・
告知
■「魔法遣いに大切なこと」
中原俊監督 山下リオ主演
劇中振付けしたので映画内容含め是非ご覧ください。
12月20日公開予定。
■「家族愛~カゾクアイ~」
企画 演出 出演 アオキ裕キ
自分の教えている子供達と作品を作ったので興味のある方は御観劇下さい。
日時:12月25日(木)19時~(開場は30分前)
開場:町田フォーラムホール
チケット:2000円
パフォーマンス
石崎珠愛 伊地知恵実 今井あかね 大橋知佳 岡純子
岡田夏海 落合あずさ 小宮山愛梨 渋谷里音 杉山優奈
須原葉子 土谷咲子 露木菜々子 仲原舞 西島花純
松岡広大 松田璃紗子 /ROCKy 瀬戸カオリ 小倉圭子 小倉誠
問合せ:ダンススタジオウップス 042-726-8788
インドでの映像とトークあり。
家族で楽しめる作品となっています。
まだ若干のチケットはあります、是非お早めにお求め下さい。
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
2008年11月12日水曜日
裸天国
まず風呂の話。
一般に風呂の中でひらめく事が多いと良く言うが、自分もそうだ。
企画、作品構成、振り付け等、風呂場でふと生まれることがある。
自分が風呂に入る時には、飼い猫のハナも付いてきて湯船の縁に座る。
そして湯船の中でぼんやりしている自分を、ハナはぼんやり見つめてくる。
つまり湯船の中と湯船の縁で、波打つ水音のみの密室の静寂の中、
お互いぼんやり向き合いじっとしているのである。
かなりゆるやかな空間である。
そこであらためてぼんやり猫を観察し、毛皮に包まれた体に目をやり、
あらためて猫も裸であるということを思う。
そこでは、猫と自分の裸の付き合いが展開している。
もちろんハナは何を考えているのかは判らない。
話の流れでまず大事なことは、人間側が”裸”であるという方なのだが、
これがリビング等の密室で一人裸でいても、
あまりひらめきがあるようには思えない。(やったことはない)
おそらく一般的に、衣服をまとっているのが適当な場所、
という状況での裸は、100%のリラックス感が得られるとはあまり思えない。
だが風呂においては裸は当然であり、
束縛も何もかも自然に脱ぎ去っているのである。
この自由と開放感とともに、誰にも邪魔されることなく
ぼんやりと湯に漂っている時間にこそ、
何か新しいものが生まれやすい、というのは確かにうなづける。
身体の開放なくしては、思考の開放もないといった所だろうか。
ここで猫の裸の方に戻るが、大きく違うのは、
とにかく猫はところ構わず裸である。
人間以外の動物は皆そうであるが、
彼らはどこにいようと裸であることににまったく抵抗はない。
屋外を元気よく走り回るハナの姿は、
開放感で喜びに包まれているようにさえ見えてくる。
「ニャオ」は「サイコー」と聞こえる。
踊りにおける裸であるが、当然ながら日常の感覚とは別になる。
自分は人前で踊る時、場所に寄らず裸で踊ることはよくある。
その場合、下はズボンや布をまとっているスタイルで、
手っ取り早い衣装という考えであるが、
確かに動物的表現に近づこうとする工程の一つなのかもしれない。
ちなみに全裸の場合、日本においては公然わいせつ罪の
適用可能性がある。それが芸術表現であろうとも
公けで全裸での表現は、観客が芸術とみなす保証も無く、
又、一般人々の通常の性的羞恥心を害する危険は免れないと、
そのような理由である。
もちろんこれはあくまでも法律の名目上であり、自分の観劇した内、
又、知る限りのダンス芸術作品では被害届が出た事も、
罰せられたことも耳にしていない。
路上における踊りで、必然性なく全裸になり
開放感に包まれていれば法的にまずアウトではあるが、
芸術的必然性の上において、
全裸で踊る感覚自体は表現者として興味はある。
そこでストリップの話になる。
何度か目にする機会があったが、
これは風俗だと簡単にわいせつ表現としてくくられる事に違和感がある。
いわゆる踊り子さんの中には、
芸術的意識がすばらしい人も少数ながら見受けられ、
その表現には、雑な卑猥さは無く、
とにかく純粋に美しいのである。
いささか皆最初に衣服を着て2曲踊るという
同じような演出パターンには疑問があるのだが、
絵画や彫刻にはない、
息遣いの美しさはまぎれない芸術であった。
そこには仕事としての自信とともに、
裸になる自然な流れがあるのかもしれない。
ストリップ小屋のもつ哀愁の香り漂う
空間は又独特でなんともいい。
人そのものがにじみ出る、
隠しようのない部分に美しさはあり、
女性の美しさという社会認識は、
芸術としてのストリップが確立されれば、変わる気がする。
アンチエイジング!と、外身にとらわれた
若返りに奔走しなくなるかもしれない。
最近自分が空を飛ぶ夢をあまり見なくなった。
飛ぶ夢だけにかかわらず、突拍子のない夢をみることも減ってきた。
だんだん現実的な夢を見る割合が多くなってきたのである。
生徒の小学生の子供達に聞くと、
空を飛ぶ夢はよく見ているという割合は多い。
現実の規則や、日常の当たり前の展開が夢の中にまで支配してくる日は、
寝ていても頭の中が固まってしまっているようで、残念に思えてしまう。
現実を知っていく上では仕方がないのだろうか?
考え事は風呂ではなく、眠って起きるとひらめく人もいる。
そういう人はしっかりと開放して眠ることができるのだ。
自分は苦しい夢をみたり、なかなか質の良い眠りが出来ずに
夜中に目を覚ますこともよくある。
すると胸の上に猫のハナが心地よく寝ているのである。
裸で走り回る動物達と同じように、自分達は裸ではなかなか走れない。
毛皮を捨て衣服をまとう道を選んだのである。
しかし創造性も何もかもすべて隠してしまう方向に進まないように。
自由なハナを見るとそう思う。
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
一般に風呂の中でひらめく事が多いと良く言うが、自分もそうだ。
企画、作品構成、振り付け等、風呂場でふと生まれることがある。
自分が風呂に入る時には、飼い猫のハナも付いてきて湯船の縁に座る。
そして湯船の中でぼんやりしている自分を、ハナはぼんやり見つめてくる。
つまり湯船の中と湯船の縁で、波打つ水音のみの密室の静寂の中、
お互いぼんやり向き合いじっとしているのである。
かなりゆるやかな空間である。
そこであらためてぼんやり猫を観察し、毛皮に包まれた体に目をやり、
あらためて猫も裸であるということを思う。
そこでは、猫と自分の裸の付き合いが展開している。
もちろんハナは何を考えているのかは判らない。
話の流れでまず大事なことは、人間側が”裸”であるという方なのだが、
これがリビング等の密室で一人裸でいても、
あまりひらめきがあるようには思えない。(やったことはない)
おそらく一般的に、衣服をまとっているのが適当な場所、
という状況での裸は、100%のリラックス感が得られるとはあまり思えない。
だが風呂においては裸は当然であり、
束縛も何もかも自然に脱ぎ去っているのである。
この自由と開放感とともに、誰にも邪魔されることなく
ぼんやりと湯に漂っている時間にこそ、
何か新しいものが生まれやすい、というのは確かにうなづける。
身体の開放なくしては、思考の開放もないといった所だろうか。
ここで猫の裸の方に戻るが、大きく違うのは、
とにかく猫はところ構わず裸である。
人間以外の動物は皆そうであるが、
彼らはどこにいようと裸であることににまったく抵抗はない。
屋外を元気よく走り回るハナの姿は、
開放感で喜びに包まれているようにさえ見えてくる。
「ニャオ」は「サイコー」と聞こえる。
踊りにおける裸であるが、当然ながら日常の感覚とは別になる。
自分は人前で踊る時、場所に寄らず裸で踊ることはよくある。
その場合、下はズボンや布をまとっているスタイルで、
手っ取り早い衣装という考えであるが、
確かに動物的表現に近づこうとする工程の一つなのかもしれない。
ちなみに全裸の場合、日本においては公然わいせつ罪の
適用可能性がある。それが芸術表現であろうとも
公けで全裸での表現は、観客が芸術とみなす保証も無く、
又、一般人々の通常の性的羞恥心を害する危険は免れないと、
そのような理由である。
もちろんこれはあくまでも法律の名目上であり、自分の観劇した内、
又、知る限りのダンス芸術作品では被害届が出た事も、
罰せられたことも耳にしていない。
路上における踊りで、必然性なく全裸になり
開放感に包まれていれば法的にまずアウトではあるが、
芸術的必然性の上において、
全裸で踊る感覚自体は表現者として興味はある。
そこでストリップの話になる。
何度か目にする機会があったが、
これは風俗だと簡単にわいせつ表現としてくくられる事に違和感がある。
いわゆる踊り子さんの中には、
芸術的意識がすばらしい人も少数ながら見受けられ、
その表現には、雑な卑猥さは無く、
とにかく純粋に美しいのである。
いささか皆最初に衣服を着て2曲踊るという
同じような演出パターンには疑問があるのだが、
絵画や彫刻にはない、
息遣いの美しさはまぎれない芸術であった。
そこには仕事としての自信とともに、
裸になる自然な流れがあるのかもしれない。
ストリップ小屋のもつ哀愁の香り漂う
空間は又独特でなんともいい。
人そのものがにじみ出る、
隠しようのない部分に美しさはあり、
女性の美しさという社会認識は、
芸術としてのストリップが確立されれば、変わる気がする。
アンチエイジング!と、外身にとらわれた
若返りに奔走しなくなるかもしれない。
最近自分が空を飛ぶ夢をあまり見なくなった。
飛ぶ夢だけにかかわらず、突拍子のない夢をみることも減ってきた。
だんだん現実的な夢を見る割合が多くなってきたのである。
生徒の小学生の子供達に聞くと、
空を飛ぶ夢はよく見ているという割合は多い。
現実の規則や、日常の当たり前の展開が夢の中にまで支配してくる日は、
寝ていても頭の中が固まってしまっているようで、残念に思えてしまう。
現実を知っていく上では仕方がないのだろうか?
考え事は風呂ではなく、眠って起きるとひらめく人もいる。
そういう人はしっかりと開放して眠ることができるのだ。
自分は苦しい夢をみたり、なかなか質の良い眠りが出来ずに
夜中に目を覚ますこともよくある。
すると胸の上に猫のハナが心地よく寝ているのである。
裸で走り回る動物達と同じように、自分達は裸ではなかなか走れない。
毛皮を捨て衣服をまとう道を選んだのである。
しかし創造性も何もかもすべて隠してしまう方向に進まないように。
自由なハナを見るとそう思う。
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
2008年10月22日水曜日
不幸日記
このブログを書くようになってかどうかは定かでは
ないのだが最近、自分の身の回りに起こる出来事
それが一般的に不幸の部類であっても、「しかたない」
とすぐにおもってしまう。
そして、文章の種として、又何かの時のネタとして、
その出来事を受け止めている自分自身に遭遇する。
以下最近の不幸の部類の出来事である。
これらはほぼ2週間の内にまとめて起こった
一般的不幸部門の出来事である。
もちろんどんな些細な不幸な出来事でも向上意識に水を差されれば、
落胆は瞬間にあるのだが、制約があればあるほど、
その中で少しでも自由の可能性を見つけようとしてしまう性質上なのか、
次に占めるのはやはりネタ(種)意識なのである。
つまり芸術家として日常生活で如何に制約の中から
飛び出してやろうかという事に楽しみを抱き、
針の穴のような所にも他人と違う形を成そうとしていなければ、
いざ自由な自己表現の場に来た時に、
その大きなフィールドに立つという喜びも、
又表現が出来る素直な喜びも無く、
もはや生命力は輝き失せたものになってしまう。
そんな意識が大きく自分の根底にある。
まあ良く言えばである・・。
上記の出来事が自分にとって落胆しないというのは、
たいした出来事ではないのだ!
といえるのではあるが、冷静に考えれば、財布関係はおおごとである。
そして財布を無くした直後程、もう落とすまいとことさら
注意深くなるものであるが・・
その後カードと携帯電話紛失へと続くのである。
これは明らかにそそっかしいにほどがあり
意力不足と反省をしなくてはならない。
失敗やその原因に興味を持つべきである。
そこでデータを取るべく新たに日記を書く事にしてみた。
しかし普通の日記ではつまらない、考えたのは<不幸日記>である。
不幸をメインとして、日常の不幸に感じた事柄を記す。
しかし、不幸の羅列だけではどうも寂しい人にしか思えない。
これはやってみれば判るが、不幸の内容のみ書かれた日記は、
まさに呪いの日記である。
考えたのは、不幸と思えた内容を記し、
その横に不幸の度合いを矢印で書く。
その度合いは矢印が下がれば下がるほど、強い不幸なのである。
%等、数字で書こうとも考えたが、
矢印線の微妙な角度やタッチで表すこととした。
たくさん書くのも面倒なので、箇条書き程度
*○月○日 駅の階段で転び仕事に遅刻。(感想・・・)(下がる矢印)
まあこのような感じである。
そして次に、良いと思われる出来事があれば、
その内容も記し、上がる矢印を書く。
*○月○日 仕事の成果、予想以上の反応。(上がる矢印)
このような感じである。
あくまでも大事なのは、自分にとっての
不幸ということの把握であり、心の変動である。
そしてこのような箇条書きの<不幸日記>を
手帳の隅に書くうちに気が付くことがあった。
例えば「下がる矢印」の出来事を記す。
そしてその数日先に、「上がる矢印」の出来事を記す。
すると矢印の落胆度が大きくても、少しの矢印の
上昇一つや二つほどで、帳消ししているような感覚になるのである。
当然価値観での度合いがあるが、
気持ちの落胆を埋めるているのは、
上回る気持ちの充足であり、
意外にちょっとした充足でまかなえる不幸も多い。
それから、落胆の感覚は当然はっきりと数字には表しづらい。
そこからいえば、裁判での精神的苦痛等における
慰謝料何千万円なんてものは案外単なるごまかしで、
本来人間としてスマートではないと思える。
原告の気持ちの落胆は、その落胆を充分に埋めるための
、死にものくるいの被告の行動や、
働きによる環境の改善などでバランスをとる事が本来は正当なのだろう。
不幸な出来事が起こると、知らずの内に
バランスを取ろうと充足行動を求める。
その充足行動で、不幸を何倍も上回る為、
無謀さを求める感覚が自分は好きである。
ショーン・ペン監督の「Into The Wild」で、
主人公の青年が放浪の末アラスカの荒野にたどり着く。
彼はお金も燃やし、最小限の装備でアラスカへ向かうのである。
一見するとその行動は常識では無謀である。
評も賛否分かれる彼の行動である。
しかし彼にとっては窮屈なものを排除して荒野で生きる中に、
彼の求める答えがあったはずなのである。
意味の無いことはとても意味がある。
そこには新しい何かを求める生命力に満ちあふれている。
無謀良し。
不幸を恐れて行動することは、現状維持には良いかも知れない。
しかしうまくいかなければそこは<不幸日記>の精神である。
正直な所、不幸日記をつけ始めた本来の目的から
微妙に逸れている気もしないでもないが、それもまた良し。
<不幸日記>興味のある方はいかがでしょう?
今回はこの辺で
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
ないのだが最近、自分の身の回りに起こる出来事
それが一般的に不幸の部類であっても、「しかたない」
とすぐにおもってしまう。
そして、文章の種として、又何かの時のネタとして、
その出来事を受け止めている自分自身に遭遇する。
以下最近の不幸の部類の出来事である。
- ブラジルで財布を紛失。(中身はレアルやドルの外貨2万円相当と、キャッシュカード1枚)
- 数日後日本に戻り、バンクカード等5枚入りのカードケースを紛失に又気づく。
- (後に成田警察から連絡。カードケースは空港で落としていた。)
- 携帯電話紛失。初落とし
- 飼い猫のハナが近所の野良猫と喧嘩、足を咬まれ動けなくなり病院へ。
- 初診料やら抗生物質やらで1万円近く・・。ちなみに次の日には走り回っていた。
- 新宿で警察より職務質問。
これらはほぼ2週間の内にまとめて起こった
一般的不幸部門の出来事である。
もちろんどんな些細な不幸な出来事でも向上意識に水を差されれば、
落胆は瞬間にあるのだが、制約があればあるほど、
その中で少しでも自由の可能性を見つけようとしてしまう性質上なのか、
次に占めるのはやはりネタ(種)意識なのである。
つまり芸術家として日常生活で如何に制約の中から
飛び出してやろうかという事に楽しみを抱き、
針の穴のような所にも他人と違う形を成そうとしていなければ、
いざ自由な自己表現の場に来た時に、
その大きなフィールドに立つという喜びも、
又表現が出来る素直な喜びも無く、
もはや生命力は輝き失せたものになってしまう。
そんな意識が大きく自分の根底にある。
まあ良く言えばである・・。
上記の出来事が自分にとって落胆しないというのは、
たいした出来事ではないのだ!
といえるのではあるが、冷静に考えれば、財布関係はおおごとである。
そして財布を無くした直後程、もう落とすまいとことさら
注意深くなるものであるが・・
その後カードと携帯電話紛失へと続くのである。
これは明らかにそそっかしいにほどがあり
意力不足と反省をしなくてはならない。
失敗やその原因に興味を持つべきである。
そこでデータを取るべく新たに日記を書く事にしてみた。
しかし普通の日記ではつまらない、考えたのは<不幸日記>である。
不幸をメインとして、日常の不幸に感じた事柄を記す。
しかし、不幸の羅列だけではどうも寂しい人にしか思えない。
これはやってみれば判るが、不幸の内容のみ書かれた日記は、
まさに呪いの日記である。
考えたのは、不幸と思えた内容を記し、
その横に不幸の度合いを矢印で書く。
その度合いは矢印が下がれば下がるほど、強い不幸なのである。
%等、数字で書こうとも考えたが、
矢印線の微妙な角度やタッチで表すこととした。
たくさん書くのも面倒なので、箇条書き程度
*○月○日 駅の階段で転び仕事に遅刻。(感想・・・)(下がる矢印)
まあこのような感じである。
そして次に、良いと思われる出来事があれば、
その内容も記し、上がる矢印を書く。
*○月○日 仕事の成果、予想以上の反応。(上がる矢印)
このような感じである。
あくまでも大事なのは、自分にとっての
不幸ということの把握であり、心の変動である。
そしてこのような箇条書きの<不幸日記>を
手帳の隅に書くうちに気が付くことがあった。
例えば「下がる矢印」の出来事を記す。
そしてその数日先に、「上がる矢印」の出来事を記す。
すると矢印の落胆度が大きくても、少しの矢印の
上昇一つや二つほどで、帳消ししているような感覚になるのである。
当然価値観での度合いがあるが、
気持ちの落胆を埋めるているのは、
上回る気持ちの充足であり、
意外にちょっとした充足でまかなえる不幸も多い。
それから、落胆の感覚は当然はっきりと数字には表しづらい。
そこからいえば、裁判での精神的苦痛等における
慰謝料何千万円なんてものは案外単なるごまかしで、
本来人間としてスマートではないと思える。
原告の気持ちの落胆は、その落胆を充分に埋めるための
、死にものくるいの被告の行動や、
働きによる環境の改善などでバランスをとる事が本来は正当なのだろう。
不幸な出来事が起こると、知らずの内に
バランスを取ろうと充足行動を求める。
その充足行動で、不幸を何倍も上回る為、
無謀さを求める感覚が自分は好きである。
ショーン・ペン監督の「Into The Wild」で、
主人公の青年が放浪の末アラスカの荒野にたどり着く。
彼はお金も燃やし、最小限の装備でアラスカへ向かうのである。
一見するとその行動は常識では無謀である。
評も賛否分かれる彼の行動である。
しかし彼にとっては窮屈なものを排除して荒野で生きる中に、
彼の求める答えがあったはずなのである。
意味の無いことはとても意味がある。
そこには新しい何かを求める生命力に満ちあふれている。
無謀良し。
不幸を恐れて行動することは、現状維持には良いかも知れない。
しかしうまくいかなければそこは<不幸日記>の精神である。
正直な所、不幸日記をつけ始めた本来の目的から
微妙に逸れている気もしないでもないが、それもまた良し。
<不幸日記>興味のある方はいかがでしょう?
今回はこの辺で
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
2008年9月17日水曜日
越境節
今回のブラジルは、サンパウロ~マナウス~ブラジリア~
クリチバ~リオデジャネイロと渡る25日間の行程であった。
海外の地で踊り得る何かは、それが何であれ、
表現者として血が騒ぐモノを感じる。
なにはともあれとにかくブラジルは遠い国であった。
片道約20時間の飛行時間である。
この自由のきかない特殊な閉鎖空間に20時間は凄い…。
乗客は皆、何を想いじっとしているのか考えてしまう。
そして渡航先に着くや否やその閉鎖空間から一気に解放させられるのが又凄い。
そこには飛行機による麻薬的効果を感じてしまう。
海外旅行に対し人々が特別な何かを感じてしまう
エッセンスの一つでなのであろう。まさに旅行とはTripである。
そうこうして、ラテンの熱いエネルギー溢れる
色彩豊かな地に到着したのだが、降り立ったサンパウロは
ちょうど冬の終わりであり、天候の悪さ、人通りの少なさ、
ビルの雰囲気も全て灰色といった感じである。
さて、今回の作品では現地のダンサーが数名参加するシーンがあり、
自分たちと7公演同行することになっていた。早々に顔を会わせた。
彼らは見事に自分の求めていたブラジルをその後見せつづけてくれた。
ブラジル=サンバとすぐに結びつけるのは、
ブラジル人ダンサーとしては実はあまり良い事ばかりではないようで、
他の踊りも踊れると言っていたのだが、
自分はやはりついついラテンのエネルギー溢れる
サンバやサルサの文化を彼らに感じてしまう。
彼らはどこであろうとラテンのリズムが流れていれば、
美しく身をゆらし陶酔し始める。それはとてもナチュラルであった。
一度、自分も彼らのようにラテンのリズムに陶酔してみようと
試みたのではあるが、どうしても形式だけになってしまう。
どうしてもナチュラルではない。かといって日本の祭り囃子が流れていれば、
自然に踊り出せるかといってもしっくりはこない感じである。
ラテン文化とは全く正反対の場所に位置する日本では、
逆に、心地よい音楽が流れていても静かに耳を傾けるのが
日本人らしく違和感がないのかもしれないと思ってしまう。
もちろん祭りでは大いに騒ぐのだが、
日本人の日常では堪え忍ぶ美なのであろう。
しかし自分は現状を打破すべく、
今後も彼らのように美しくリズムに陶酔をこころみる気がする。
旅も半ばのクリチバでのエピソードであるが、
滞在したホテルのサウナでブラジル人ダンサー二人と
たまたま一緒になった。二人とも美しく、四畳半ほどのサウナ室には
水着を着ている状況で三人座っていた。
もちろん彼女達はその状況に全く抵抗は無いようである。
彼女達はおもむろに「あなたは隠している」と言ってきた。
この状況での「隠している」とは水着くらいである。
しかし「隠している」とはどうやら自分の踊りについてであり、
表現に対しての素直な興味であった。
(これは誰でも勘違いしそうなモノだともうのが。落語のようである)
「踊っているときあなたは何を考えているのか?」
「禅を表しているのか?」と質問してくる。
自分の踊りは何も隠しているつもりはないのであるが、
確かに彼女達のオープンな踊りとの違いは大きいようである。
街角でハグやキスをすることに対して全く抵抗のない彼女達の
表現に比べると、自分の表現は確かに隠し事だらけに
見えるのかもしれない。
踊っているときはあまり何も考えていないし、
たまたまそう見えるだけだとは思う。
もちろんスタイルではないので、また生活とともに変化をしていくのだろう…。
彼女達のオープンな踊りはしっかりとリアリティがあり、
とても素敵である。お互いにとって、表現形態はとても興味がある。
さて、ブラジルに日本人が移民として生活を始め
100周年という節目である。自分はぜひその踊りをそして
作品を日系人に見て欲しいと望んでいた。
神戸港より日本人が移民として初めて出発したのが明治四十一年。
ブラジルに渡航して、移民を取材し、
小説にした石川達三氏の「蒼民」(そうみん)
では、当時の移民事情は明るいものではなく、
荒涼とした土地での農業は出稼ぎとはほど遠いものであった。
その厳しい現実と向き合った時、帰国することは無理であると確信したのである。
そこには希望に満ちた移民制度というイメージは見えない。
世界には約270万人以上の日系人が生活しており、
ブラジルはその中のトップで140万人以上ということである。
日系人としてどういう感覚で日本を見ているのかは興味があった。
サンパウロの劇場にて、日系人のおばさま達と話した時の事である。
「見に来るのを楽しみにしていたのよ!」とかげりの全くない
ブラジル人の明るいテンションで話しかけてきた。
聞くところによれば皆日系二世。5人のうち3名は日本人の風貌であるが、
後の2名はやや浅黒い肌で南アジアの雰囲気をもつ顔立ちである。
つまり移民として渡ってきた日系人は、
日本人同士で結婚すると限られるわけではない。
二世三世と混血化をしていく事は当然なのである。
一緒に同行したブラジル人ダンサーにも2名の日系人がいた。
彼らは言われなくては日系人だと判らない顔立ちであった。
ブラジルは多国籍国家である。
世界各国の特色や肌の色を持つ人種が混在している事に
もともと抵抗は少ないと言えるようである。
それにしてもハーフやクオーターの人には美しい顔立ちが多く思える。
これは生物の子孫繁栄本能として良い遺伝子を残していこうとする力と
関係があるような気がするのだが、もしも数億年後の世界が
混血の子孫で満ちあふれたのなら、国の境は薄いモノとなり、
世界不和は減るのかもしれない。
各国間で遺伝子交配が無い未来に向かうより、
そこには明るい展開を感じる。
マナウスに住む日系三世の通訳の学生に
日本に住みたいと思うか尋ねた。
「日本へは2度帰った。大好きであるがきっとブラジルにいる」と答えた。
そして「日系二世はブラジル生まれではあるがほぼ日本人の容姿をしている。
幼少時代はやはり日本人はめずらしく、容姿のことでつらい思いを
したこともあるようで二世には日本をあまりよく思っていない人もいます。
三世は混血化によりブラジルになじんでいる分、
に自分のルーツである日本に興味を持つ人も多い。
結構日本に住んでいますよ」とのことである。
ちなみにタレントのマルシアは三世。
サッカーのセルジオ越後は二世で日本に戻っている著名人である。
もう一人の通訳をしていた20代の女性は、大学で日本を教える傍ら、
よさこいソーランのチームを日系人仲間とつくり、踊っていると言っていた。
彼女は日本からよさこいソーランのビデオを取り寄せ練習しているようである。
「日本は一度帰ってみたいが飛行機が高いからね…」とぼやいていた。
ブラジル人にソーランを見せたいととにかく楽しそうであった。
彼らは日本人の見ていない日本を見ているようである。
そしてみなハッピーである。
ブラジリアにあるテレビ塔には展望台があり、周りを一望できる。
近年、サンパウロより首都を移したその都市は砂漠の中にある。
中心はお台場のようであった。
そこでブラジルの子供達の遠足らしき一団と一緒になった。
彼らは自分が日本人に見えないと言って、楽しそうに騒いでいた。
自分も楽しかった。
今回はこの辺で。
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
クリチバ~リオデジャネイロと渡る25日間の行程であった。
海外の地で踊り得る何かは、それが何であれ、
表現者として血が騒ぐモノを感じる。
なにはともあれとにかくブラジルは遠い国であった。
片道約20時間の飛行時間である。
この自由のきかない特殊な閉鎖空間に20時間は凄い…。
乗客は皆、何を想いじっとしているのか考えてしまう。
そして渡航先に着くや否やその閉鎖空間から一気に解放させられるのが又凄い。
そこには飛行機による麻薬的効果を感じてしまう。
海外旅行に対し人々が特別な何かを感じてしまう
エッセンスの一つでなのであろう。まさに旅行とはTripである。
そうこうして、ラテンの熱いエネルギー溢れる
色彩豊かな地に到着したのだが、降り立ったサンパウロは
ちょうど冬の終わりであり、天候の悪さ、人通りの少なさ、
ビルの雰囲気も全て灰色といった感じである。
さて、今回の作品では現地のダンサーが数名参加するシーンがあり、
自分たちと7公演同行することになっていた。早々に顔を会わせた。
彼らは見事に自分の求めていたブラジルをその後見せつづけてくれた。
ブラジル=サンバとすぐに結びつけるのは、
ブラジル人ダンサーとしては実はあまり良い事ばかりではないようで、
他の踊りも踊れると言っていたのだが、
自分はやはりついついラテンのエネルギー溢れる
サンバやサルサの文化を彼らに感じてしまう。
彼らはどこであろうとラテンのリズムが流れていれば、
美しく身をゆらし陶酔し始める。それはとてもナチュラルであった。
一度、自分も彼らのようにラテンのリズムに陶酔してみようと
試みたのではあるが、どうしても形式だけになってしまう。
どうしてもナチュラルではない。かといって日本の祭り囃子が流れていれば、
自然に踊り出せるかといってもしっくりはこない感じである。
ラテン文化とは全く正反対の場所に位置する日本では、
逆に、心地よい音楽が流れていても静かに耳を傾けるのが
日本人らしく違和感がないのかもしれないと思ってしまう。
もちろん祭りでは大いに騒ぐのだが、
日本人の日常では堪え忍ぶ美なのであろう。
しかし自分は現状を打破すべく、
今後も彼らのように美しくリズムに陶酔をこころみる気がする。
旅も半ばのクリチバでのエピソードであるが、
滞在したホテルのサウナでブラジル人ダンサー二人と
たまたま一緒になった。二人とも美しく、四畳半ほどのサウナ室には
水着を着ている状況で三人座っていた。
もちろん彼女達はその状況に全く抵抗は無いようである。
彼女達はおもむろに「あなたは隠している」と言ってきた。
この状況での「隠している」とは水着くらいである。
しかし「隠している」とはどうやら自分の踊りについてであり、
表現に対しての素直な興味であった。
(これは誰でも勘違いしそうなモノだともうのが。落語のようである)
「踊っているときあなたは何を考えているのか?」
「禅を表しているのか?」と質問してくる。
自分の踊りは何も隠しているつもりはないのであるが、
確かに彼女達のオープンな踊りとの違いは大きいようである。
街角でハグやキスをすることに対して全く抵抗のない彼女達の
表現に比べると、自分の表現は確かに隠し事だらけに
見えるのかもしれない。
踊っているときはあまり何も考えていないし、
たまたまそう見えるだけだとは思う。
もちろんスタイルではないので、また生活とともに変化をしていくのだろう…。
彼女達のオープンな踊りはしっかりとリアリティがあり、
とても素敵である。お互いにとって、表現形態はとても興味がある。
さて、ブラジルに日本人が移民として生活を始め
100周年という節目である。自分はぜひその踊りをそして
作品を日系人に見て欲しいと望んでいた。
神戸港より日本人が移民として初めて出発したのが明治四十一年。
ブラジルに渡航して、移民を取材し、
小説にした石川達三氏の「蒼民」(そうみん)
では、当時の移民事情は明るいものではなく、
荒涼とした土地での農業は出稼ぎとはほど遠いものであった。
その厳しい現実と向き合った時、帰国することは無理であると確信したのである。
そこには希望に満ちた移民制度というイメージは見えない。
世界には約270万人以上の日系人が生活しており、
ブラジルはその中のトップで140万人以上ということである。
日系人としてどういう感覚で日本を見ているのかは興味があった。
サンパウロの劇場にて、日系人のおばさま達と話した時の事である。
「見に来るのを楽しみにしていたのよ!」とかげりの全くない
ブラジル人の明るいテンションで話しかけてきた。
聞くところによれば皆日系二世。5人のうち3名は日本人の風貌であるが、
後の2名はやや浅黒い肌で南アジアの雰囲気をもつ顔立ちである。
つまり移民として渡ってきた日系人は、
日本人同士で結婚すると限られるわけではない。
二世三世と混血化をしていく事は当然なのである。
一緒に同行したブラジル人ダンサーにも2名の日系人がいた。
彼らは言われなくては日系人だと判らない顔立ちであった。
ブラジルは多国籍国家である。
世界各国の特色や肌の色を持つ人種が混在している事に
もともと抵抗は少ないと言えるようである。
それにしてもハーフやクオーターの人には美しい顔立ちが多く思える。
これは生物の子孫繁栄本能として良い遺伝子を残していこうとする力と
関係があるような気がするのだが、もしも数億年後の世界が
混血の子孫で満ちあふれたのなら、国の境は薄いモノとなり、
世界不和は減るのかもしれない。
各国間で遺伝子交配が無い未来に向かうより、
そこには明るい展開を感じる。
マナウスに住む日系三世の通訳の学生に
日本に住みたいと思うか尋ねた。
「日本へは2度帰った。大好きであるがきっとブラジルにいる」と答えた。
そして「日系二世はブラジル生まれではあるがほぼ日本人の容姿をしている。
幼少時代はやはり日本人はめずらしく、容姿のことでつらい思いを
したこともあるようで二世には日本をあまりよく思っていない人もいます。
三世は混血化によりブラジルになじんでいる分、
に自分のルーツである日本に興味を持つ人も多い。
結構日本に住んでいますよ」とのことである。
ちなみにタレントのマルシアは三世。
サッカーのセルジオ越後は二世で日本に戻っている著名人である。
もう一人の通訳をしていた20代の女性は、大学で日本を教える傍ら、
よさこいソーランのチームを日系人仲間とつくり、踊っていると言っていた。
彼女は日本からよさこいソーランのビデオを取り寄せ練習しているようである。
「日本は一度帰ってみたいが飛行機が高いからね…」とぼやいていた。
ブラジル人にソーランを見せたいととにかく楽しそうであった。
彼らは日本人の見ていない日本を見ているようである。
そしてみなハッピーである。
ブラジリアにあるテレビ塔には展望台があり、周りを一望できる。
近年、サンパウロより首都を移したその都市は砂漠の中にある。
中心はお台場のようであった。
そこでブラジルの子供達の遠足らしき一団と一緒になった。
彼らは自分が日本人に見えないと言って、楽しそうに騒いでいた。
自分も楽しかった。
今回はこの辺で。
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
2008年8月13日水曜日
ニューきらぼし
先日、昼下がりの中央線車内にて、
目の前に座っている女子高生2人組の会話が聞こえてきた。
最近、小中校生に踊りを教えている事もあり、
なんとなく注意が向かった。
閑散とした電車内、小説を読んでいる自分の耳には、
彼女達のイケメンについての議論が飛び込んできた。
ちなみに「イケメン」は今では広辞苑で引く事のできる言葉である。
漢字をあてると「いけ面」。いけているつらである。
10代の創る言葉の勢いを感じる。
将来に残っていく言葉かどうか判らないとしても、
停滞なく新しい言葉を創造していく10代のエネルギーはすばらしい。
中高年層においても、どんどん日常的に
新しい言葉を生み出す事があってもいいと思うのだが。
さて、その女子高生達なのだが、
その会話の対象がどうやら目の前に座っている自分の事であり、
そしてその自分がイケメンかそうでないかを議論しているのである。
細かい会話の内容は自意識過剰にもとられかねないし、
面倒なので差し控えるが、とにかく自分は彼女達程の
子供がいてもおかしくない年齢である。
しかし相手が誰であれ、他人に評価されるとなるとやはり
イケてる方が良いと心に思っている自分がいる。
そこでいきなり自分が踊り出しでもすれば
予想の出来ない展開で話も面白いのだが、
さすがに度胸は出なかった。
一般的に思えるのだが、ぎこちなく小説に目を落とすのみである。
話は少しそれるのだが、小中校生を見て最近感じる事は、
まず驚異的な成長スピードである。
踊りを習う生徒達も、頻繁に会っているにもかかわらず
明らかに身長は伸び、急激な成長をうかがう事ができる。
これは親になり成長期を過ぎると忘れていく
感覚なのかもしれないが、その子供が成人へと急激な
成長をしている時期において、実は彼らの心には
かなりのストレスがかかっているのを感じる。
それは明らかに肉体の成長に精神の成長が追いつかないのである。
生まれて十数年の人生では世の中に対しての存在の仕方、
あまりあるエネルギーの使い方等はバランスをとる事はなかなか難しく、
自分自身の外に広がる無限の世界に対しての不安は
大きくて当然なのである。
そして内側からだけでなく物心つく時期の彼らには、
社会全体の大きな不安感はストレートに
その身体へと染み込んでくるのである。
よく思い出してみれば誰もが弱くもろい
ガラスの十代であったはずであり、そしていうまでもなく、
今の若者は自分が十代の頃よりも遙かに
不安に包まれた状態なのである。
現在はまさに個人がいかに心地よく生活するかを
追求して作られた世の中のシステムであり、
そこでは生物としての人間が繁栄することは追求されていない。
一人一人が常にかかえ、見えないようにしている寿命や
死に対する恐れだけはなく生物レベルでの
人間の滅亡と向かい合った時、
果たしてその人間は一体どう変わるのかと思ってしまう。
今の世の中をふまえると、現在の若者は、
その進化の真っ只中にいるのではないかと思う。
生徒達の踊り表現には予想の出来ない10代の不安定さがある。
そしてその不安定さが現状を打ち崩す力の片鱗に見えてくるのである。
余談であるが最近のニュースで、思春期の子供を持つ親が、
今の世の中、「子供が事件を起こさないかと不安です。」と
とても不安な顔で数名インタビューを受けていた。
重複するようだが、肉体が不安定なら
精神もそれに伴うのは当然であり、
その不安定な中一番身近な親が不安な顔をするのが一番まずい。
親にはどっしり構えていて欲しいのである。
人間は精神と肉体と丸ごと合わせて人間であり。
丸ごと観れば情報や信号は現れている。
ならばしっかりと身体を動かし健康になろう!…と言うのは易しいだろう。
だが、個人がいかに便利で楽な生活が出来るかの追求の中,、
単純にそこには行き着くとは思えないのが自分の中にある。
先日中学生と地球温暖化の話をしていて
「車をなくせば、排気ガスが無くなって一番かんたんだよね」と
自分に言ってきた。
その通りである。
なぜそれは出来ないのかは判る事で、
単純に車を使っての社会の構築が今であり、
社会システムに複雑に入り込んだ車が無くなる事は
今更あり得ないのである。
へたをすればナンセンスと言われるであろう。
つまりこれは人間個人の生活重視のシステムであり、
生物としての人間が繁栄するためには追求されていない結果なのである。
目の前に座っていた女子高生に戻るが、
彼女達の会話はイケメンについては結論が出た訳ではなく
すでにどうでもよくなったようで家族話に変わっていた。
彼女達の会話は予想が出来ないのである。
世のトップに君臨する人間の予想できる発言や行動よりも、
彼女達の方が遙かに地球を救う力があるように思えてしまう。
*
自分は踊りを踊る事、そして人に見せることが
全ての平和になるとは思っていない。
人間の表現は驚くほど複雑で、同時に、
笑えるほど単純なのである。
その表現を観る側はもちろん受け取り方は
安易にはいかないのである。
この社会で生きればゆがみが出るのが当然であり、
そこに人間のもろさがある。
自分がなぜそこに魅かれるのか解らないが、
自分の表現や作品はそこにたどりついてしまうのである。
予想できないコミュニケーションはいい。
さて、この文章が掲載される頃はブラジル公演中である。
今回は大所帯の作品に参加。
ちなみに自分の役柄は「きこり」。
ではまた次回に…。
* * *
2008年日伯交流年 /ブラジル移民百周年記念
「現代舞踊ブラジル公演ツアー」。
「笑う土」
演出・振付・構成/加藤みや子
ダンス/立花あさみ 昆野まり子 むらやまマサコ
細川麻美子 畦地真奈加 畦地亜耶加 カスヤマリコ 村本すみれ
横田恵 寺杣彩 市原昭仁(山海塾) アオキ裕キ 登渡カッパ
木原浩太 岩濱翔平 飯田惣一郎
美術/三輪美奈子
音楽・演奏/加藤訓子
テキスト/三輪遊
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
目の前に座っている女子高生2人組の会話が聞こえてきた。
最近、小中校生に踊りを教えている事もあり、
なんとなく注意が向かった。
閑散とした電車内、小説を読んでいる自分の耳には、
彼女達のイケメンについての議論が飛び込んできた。
ちなみに「イケメン」は今では広辞苑で引く事のできる言葉である。
漢字をあてると「いけ面」。いけているつらである。
10代の創る言葉の勢いを感じる。
将来に残っていく言葉かどうか判らないとしても、
停滞なく新しい言葉を創造していく10代のエネルギーはすばらしい。
中高年層においても、どんどん日常的に
新しい言葉を生み出す事があってもいいと思うのだが。
さて、その女子高生達なのだが、
その会話の対象がどうやら目の前に座っている自分の事であり、
そしてその自分がイケメンかそうでないかを議論しているのである。
細かい会話の内容は自意識過剰にもとられかねないし、
面倒なので差し控えるが、とにかく自分は彼女達程の
子供がいてもおかしくない年齢である。
しかし相手が誰であれ、他人に評価されるとなるとやはり
イケてる方が良いと心に思っている自分がいる。
そこでいきなり自分が踊り出しでもすれば
予想の出来ない展開で話も面白いのだが、
さすがに度胸は出なかった。
一般的に思えるのだが、ぎこちなく小説に目を落とすのみである。
話は少しそれるのだが、小中校生を見て最近感じる事は、
まず驚異的な成長スピードである。
踊りを習う生徒達も、頻繁に会っているにもかかわらず
明らかに身長は伸び、急激な成長をうかがう事ができる。
これは親になり成長期を過ぎると忘れていく
感覚なのかもしれないが、その子供が成人へと急激な
成長をしている時期において、実は彼らの心には
かなりのストレスがかかっているのを感じる。
それは明らかに肉体の成長に精神の成長が追いつかないのである。
生まれて十数年の人生では世の中に対しての存在の仕方、
あまりあるエネルギーの使い方等はバランスをとる事はなかなか難しく、
自分自身の外に広がる無限の世界に対しての不安は
大きくて当然なのである。
そして内側からだけでなく物心つく時期の彼らには、
社会全体の大きな不安感はストレートに
その身体へと染み込んでくるのである。
よく思い出してみれば誰もが弱くもろい
ガラスの十代であったはずであり、そしていうまでもなく、
今の若者は自分が十代の頃よりも遙かに
不安に包まれた状態なのである。
現在はまさに個人がいかに心地よく生活するかを
追求して作られた世の中のシステムであり、
そこでは生物としての人間が繁栄することは追求されていない。
一人一人が常にかかえ、見えないようにしている寿命や
死に対する恐れだけはなく生物レベルでの
人間の滅亡と向かい合った時、
果たしてその人間は一体どう変わるのかと思ってしまう。
今の世の中をふまえると、現在の若者は、
その進化の真っ只中にいるのではないかと思う。
生徒達の踊り表現には予想の出来ない10代の不安定さがある。
そしてその不安定さが現状を打ち崩す力の片鱗に見えてくるのである。
余談であるが最近のニュースで、思春期の子供を持つ親が、
今の世の中、「子供が事件を起こさないかと不安です。」と
とても不安な顔で数名インタビューを受けていた。
重複するようだが、肉体が不安定なら
精神もそれに伴うのは当然であり、
その不安定な中一番身近な親が不安な顔をするのが一番まずい。
親にはどっしり構えていて欲しいのである。
人間は精神と肉体と丸ごと合わせて人間であり。
丸ごと観れば情報や信号は現れている。
ならばしっかりと身体を動かし健康になろう!…と言うのは易しいだろう。
だが、個人がいかに便利で楽な生活が出来るかの追求の中,、
単純にそこには行き着くとは思えないのが自分の中にある。
先日中学生と地球温暖化の話をしていて
「車をなくせば、排気ガスが無くなって一番かんたんだよね」と
自分に言ってきた。
その通りである。
なぜそれは出来ないのかは判る事で、
単純に車を使っての社会の構築が今であり、
社会システムに複雑に入り込んだ車が無くなる事は
今更あり得ないのである。
へたをすればナンセンスと言われるであろう。
つまりこれは人間個人の生活重視のシステムであり、
生物としての人間が繁栄するためには追求されていない結果なのである。
目の前に座っていた女子高生に戻るが、
彼女達の会話はイケメンについては結論が出た訳ではなく
すでにどうでもよくなったようで家族話に変わっていた。
彼女達の会話は予想が出来ないのである。
世のトップに君臨する人間の予想できる発言や行動よりも、
彼女達の方が遙かに地球を救う力があるように思えてしまう。
*
自分は踊りを踊る事、そして人に見せることが
全ての平和になるとは思っていない。
人間の表現は驚くほど複雑で、同時に、
笑えるほど単純なのである。
その表現を観る側はもちろん受け取り方は
安易にはいかないのである。
この社会で生きればゆがみが出るのが当然であり、
そこに人間のもろさがある。
自分がなぜそこに魅かれるのか解らないが、
自分の表現や作品はそこにたどりついてしまうのである。
予想できないコミュニケーションはいい。
さて、この文章が掲載される頃はブラジル公演中である。
今回は大所帯の作品に参加。
ちなみに自分の役柄は「きこり」。
ではまた次回に…。
* * *
2008年日伯交流年 /ブラジル移民百周年記念
「現代舞踊ブラジル公演ツアー」。
「笑う土」
演出・振付・構成/加藤みや子
ダンス/立花あさみ 昆野まり子 むらやまマサコ
細川麻美子 畦地真奈加 畦地亜耶加 カスヤマリコ 村本すみれ
横田恵 寺杣彩 市原昭仁(山海塾) アオキ裕キ 登渡カッパ
木原浩太 岩濱翔平 飯田惣一郎
美術/三輪美奈子
音楽・演奏/加藤訓子
テキスト/三輪遊
※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ
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