2012年2月25日土曜日

栃木ステージラボ

地域創造という財団法人があります。この機関は1994(平成6)年に設立され、地域における文化・芸術活動を担う人材の育成や、公立文化施設の活性化を図るための各種支援事業(音楽・ダンス・演劇・邦楽・美術・助成)など、多彩なプログラムを実施しています。
23日木曜にこの財団のプログラム「栃木ステージラボ」に、私は講師として話をしてきました。「ステージラボ」とは、公立文化施設等の職員を対象に、事業の企画制作、施設運営、地域との関わりなど、ホール、劇場等のソフト運営に欠くことのできない要素を体得するための研修で財団設立当初より、全国で開催され続けています。簡単に言えば地方の劇場やホールの運営を考え、人材を育成するゼミです。

今日は都市に文化や芸術は集中していますが、地方の劇場の状況をしっかりと考えることは大切であり、自分の住んでいる東京が豊かならそれで良いわけでなく、文化、芸術の力で地方も豊かにしていかなくてはなりません。(東京の人間が豊かといえば定かでありません、芸術が豊かにあることは確かですね。)九州、愛知、岐阜、熊本、大分・・日本各地の劇場、ホールの職員の方たち15名ほどの参加者に私の活動、芸術観を話し、その後ディスカッションを行なってきました。ゼミに参加した職員の方たちは、素直に自身と向き合い、向上心を持ち臨んでいる姿が印象的でした。

我々は作品を創る側、ダンサー側の視点で芸術を捉えがちですが、劇場やホール側の視点に立ってみると又違った発見があります。劇場やホールは単に観客の見込める大型作品や、団体を呼べば良いというものではありません。劇場やホールが主体となり地域の住民に芸術を提供する、芸術で地域を豊かにすることの必要性に大きく視点を置いています。これらはアウトリーチと呼ばれ、手を差し伸べるという意味合いです。そして人のつながり、地域と人のつながり、都市と地域とのつながりを創り上げる、つまりコミュニティの大切さに重要性を置いています。

これらの例としては、地方劇場に都市からアーチストを派遣して、一般の参加者を募り、ワークショップ等を行い、発表したりする形がよくあります。私も2010年、岐阜の多治見市文化会館の企画で呼んでいただき、一般公募の素人やダンサーを集め、数週間かけワークショップを行い、舞台公演を行いました。短期間ですが、参加者の技術だけではなく、内面の成長や、他人との関係の変化が見えたときに企画価値を肌で感じることが出来ました。これらはダンスのみならず、音楽や、伝統芸、絵画などさまざま行なわれていますが、まだまだ身体を動かし表現をする踊りの効果が一般へ浸透できるように思えます。

ちなみにイギリスなどでは精神疾患や、運動不足に医者がダンスを進めるほどダンスが生活に密着しています。刑務所では演劇やダンスでの更生プログラムは当たり前ですし、薬物使用者や、アルコール中毒者の更生施設にもダンスを取り入れ、国が後押しをしてお金を出すほどです。そう考えると日本のダンスは一般の人には抵抗あるものとして捉えられている印象は強くあります。別にこれは駄目なことではなく日本人の気質であり、国民性であると思います。
必要なのは今の日本をしっかり捉えることです、そして日本の国民性を考え地域の良さを打ち出し、誰もが身近にできる企画を打ち出せる人材なのです。

参加者のアイデアで「地方の知られざる名所を市民がアピールして踊る」のはどうだろうというのがありました。これは良いと思います。地方の良さをアピールするために踊る使命感は頑張れます。ましてや他の地方も同じようにやり、ユーチューブなどにのせてもそれぞれの特色が見られて良いと思いますし、難しいことをやる必要もなく地域住民の出演協力は得られやすいでしょう。「学校の校歌に振付をする」というのがありました。これはアーチストが先導し生徒達に創らせると様々な良い効果があるはずですし、各学校での校歌の違いも見たくなります。

今回、地域の劇場、ホール側の視点で社会を見たときに、様々な社会問題を防ぐことが出来ない要因の一端は自分達にあるという意識を持つことがまず必要だと感じました。様々な社会問題はその社会を構成している全ての人間の責任であると思います。つまり芸術にたずさわる人間はその意識を持って、社会問題を改善できるほどの芸術を作り、提供するというモチベーションの強さがあることが大切です。誰をも魅了する芸術を目指すことです。別に内容が重く真面目なものを提供しなくてはならないのではありません。面白くても、変でも良いのです。芸術の力で地方を活性化し、孤立のない社会を目指すことの大切さを改めて感じました。

コーディネーターのJCDNの代表である佐東さんは「ボリューム感が必要」と話していたのが印象に残っています。つまりアーチストや、施設単体それぞれの力は大きく物事を動かすには弱いものです。しかし同じ意思を持ち同時に各地で何か行なうことができれば、そこから生まれるものは遥かに強烈な力になるはずです。今は、私自身、アーチスト同士も実は孤立しているように思えます。基本的にアーチストは個人であるべきだと思います。劇場も個々の色合いは強く持つべきで、何から何まで統一する必要はありませんが、アイデアを共有し、アーチスト同士、施設同士のつながりが出来たとき、孤立のない社会への導入の輝きが見えるのかもしれません。


地域創造HP http://www.jafra.or.jp/

2012年2月12日日曜日

親のための「子供の踊り」について ~衝動~

先日2月10日、横浜寿町の保育園児の前で踊ってきました。
朝10時から始めるため自宅から1時間以上かけ石川町へ向かいました。
久々に通勤アワーに乗りましたが、やはり混んでいます。本当に会社勤めの方は凄いと思います。
向かった先は「寿福祉センター保育所」です。集まった子供達30人ほどでしょうか。とにかく想像以上にノリが良く、いろいろな動きや、小道具にことごとく反応し喜びます。とても良いお客さんです。いずれ映像を見せられるようにしたいと思います。生活保護受給者が、70パーセント以上占めるというこの地域のイメージですが、子供は皆可愛くて元気です。周りの環境で不自由になる子供がいるということは忘れてはなりません。

私自身いつも「衝動」を大切にしています。衝動とは「心が魅かれる」ことです。
子供たちが町で踊り、いずれそこの地区にいる生活保護を受けているおじさん達が踊る、もしくはその子供達が踊りを教えると面白いと思うことが衝動です。それらは私の心魅かれることであります。つまり正直に言えば良いことがしたいと思っているのではなく、ダンス芸術によって生まれるまだ見ていない世界が見たいのです。私のダンス遍歴は18才で踊りを習い始めて人前で踊ることに喜びを感じ、さらに大きな場所へとテーマパークで踊り、メディアで踊り、海外など舞台で踊り、現在に至ります。
とにかく衝動がどんどん変わりました。もちろん喜び、挫折や、飽きること、迷いは数多くありました。たどり着いた現在は一番お金にならないことですが、社会から逸脱してしまった人たちの感覚は自分自身の表現をも成長させる力でもあり、私の抱えるテーマを社会に伝えるためには必要な存在なのです。もちろんこれは私自身の衝動であり、他の人には押し付けるものではありません。

人は純粋なそのときの衝動をとにかく大切にすることが喜びの始まりだと思います。

子供達の純粋な衝動は、とにかくまずは「動きたい」そのものに尽きます。生まれて自分の身体に出会い、その身体が思い通りに歩いたり走ったりできることは、子供にとって強烈な喜びです。又自身の内側からとめどなく湧き出るエネルギーをとにかく動いて発散することが自然なのです。そして衝動は変化をしていきます。「動きたい」の先に行くのです。そこからはそれぞれの世界が広がります。

自分の内面(心)に素直になれることは、踊りに限らず人間には必要なことだと思います。

人間は他人を見て成長します。周りが魅力的に写りいろいろなことが良く見え、自分が解らなくなる事があります。でもそれはいろいろなものを吸収しようとする証であり、自分に必要でないものはいずれ大して気にならなくなるでしょう。しかしそれはいかに自分の内側(心)に素直になれるかで変わってきますが・・

つまり踊るということは自分の内側(心)に目を向けることに繋がります。お客さんの前に一人で立てば、全てが丸裸になります。嘘をつけばばれます。形だけではなく心も同じにすることが大切です。
つまり愛情の表現なのに、形だけ愛情の形をすれば良いだろうなんて考えでは、人の心をつかむことは程遠いでしょうし、お金を払った方に失礼です。(もちろんお金をもらって踊っていこうと思えばという話です。)つまり表現を突き詰めれば、おのずと自分の内面と向き合うしかありません。

他人を悪く言う人間であれば、愛情の表現を踊ることは難しいでしょう、その場合は3択です。
1、自身が他人に愛情を持てるように努力する
2、愛情の表現は止め、他人をおとしめる表現をみせる
3、ごまかして表面的に踊る。
私は2番目でも自身に素直であれば良いと思います。これは芸術として見たいと思います。3番目の選択は自身を一番苦しめることになりますし、その踊りに輝きは無いでしょう。良い人になれと言っているのではなく、自己と向き合って、自分をどうしたいかという意思を大切にすることなのです。

これは「自己と向き合う力」であり踊りの持つ要素の一つです。

踊りによって育まれるものは他にもかなりあります。
「ダンス技術」「肉体への可能性の挑戦」「健康保持」「リラクゼーション」「協調性」「コミュニケーション」「創造力」「想像力」「情操力」(感情豊かな心、優れたものに感動する心)「美意識」「性」(男性女性の骨格の差、踊りによる男女コミュニケーション)「異文化」(海外、外国人との違い、文化の違い、身体コミュニケーション)「解放」「伝達手段としての身体」他・・

それぞれの例は又そのうち触れられると良いですが、とにかく「人間成長」へと繋がるたくさんの要素があります。そして子供だけでなく、周りの環境、私自身や親も共に成長していく事が大切だとつくづく感じます。

人を理解することは大切です。通勤ラッシュは嫌ですが私にとっては時々乗るべきかもしれませんね。

2012年1月30日月曜日

親のための「子供の踊り」について ~転ぶ~

私が小学生だった頃、このまま永遠に小学校生活が続くのかな?と感じるほど途方に長く感じた記憶があります。世の中には自分の知らない刺激的なものが溢れ、毎日がその新しい刺激と出会ってきた証拠なのかもしれません。年を重ねての習慣的で単調な一日などは、驚くほど時間の経つ速さを感じます。そんな日はなんとなく一日を損した気になります。

こども達の成長は驚くほど早く、数年で身長や、顔立ち、内面はあっという間に変わって驚きます。
人は生まれてから寿命まで刻一刻と変化をし続けていますが、いかにその変化に伴って自分自身を対応させていけるかが将来において必要な事だと感じています。

世の中の変動はとても早く、町並みはもちろん、流行の髪形やファッション、物価、など数年に瞬く間に変化をしました。

世の中は変動し、自身も年を重ねていけば、考え方や価値観も柔軟に変わって行くことが自然なことだと思っています。つまり今かっこ良いと思っていることが10年後にはそう思えなくなるかもしれません。今大切だと思うことが10年後には大切でなくなる可能性が大いにあるのです。ライト兄弟が初めて有人動力飛行に成功したのは1903年であり、たったその66年後の1969年には人類は月に行きました。その展開は驚く速さです。おそらくその一世代の常識や価値観は66年前とは大きく違っているはずです。

大切なのはいかにその変化に内面が伴っていけるかということです。もちろん変わらずに文化を守ることや、逆にその時代の流行や、注目していることをすぐさま取り入れることも一つの手であるのかもしれませんが、大切なことは、その時代に必要なものを感じて、自分で判断し創りだせる力になると思います。

我々は、生まれてから日々発見をして、学校ではいろいろな事を学ぶことの出来る環境にいます。
しかし、その学んで吸収したものはあくまでも素材であり、その素材をいかに利用、変換し、将来で活かせるかが大切なことであり、その作業は生きる躍動です。

ダルビッシュ投手はメジャーへ行く理由の一つに「対戦相手から、試合前に打てないとか無理だとか冗談でも聞いて、フェアな対戦をしていないのではないかと引っかかっていた」と述べ、これを受けて「モチベーションを保つのが難しくなっていた」と語っています。対戦相手の保守的な言葉からは、躍動は感じられません。当初はメジャーに行く気はないといっていたダルビッシュ投手ですが、純粋に躍動を得るためにモチベーションを求める姿は、人としてとても自然な姿だと感じます。

子供達は、転げまわろうが、変な動きだろうがいっこうにかまわず、楽しんでいます。純粋に身体を動かし、踊るという喜びが溢れています。しかしながら中高生辺りになるとどんな動きでも楽しんで動く子は圧倒的に限られ、年を重ねるごとに苦手なことや、恥ずかしいことを回避して行く傾向があります。もちろん自分の好きな形式の追求は悪いことではありませんが、無意識に体裁や自身の見栄えに執着することに気持ちは多く傾きます。これは踊りに限らずにあると思います。
価値観を変える事は成長するにつれどんどんと、難しくなって行きます。なぜそうなのでしょうか、そこには自身の培って信じてきた道があり、プライドがあり、知らない世界へ飛び込むには勇気も必要です。ストレスです。
私自身も30代の最初まで、良いこと悪いこと、やりたいこと、いやなことが明確に自身の中に刻まれていました。しかしわたしにとってそれらは、自由という芸術の本質と向き合ったときに、とてつもなく不自由にしてしまう偏りそのものでした。私は人であり機械ではありません、そこに「生きている姿」を人前にて見せることが、今、内容云々の前に必要であると感じています。

どのようなことにも良い面、悪い面があり、細部にとらわれれば、守り、立ち止まってしまうでしょう。
世の中は変わります、その中でいろいろなことを吸収せず、立ち止まることはとても不自然なことだと感じます。 学んできたことを覆さなくてはならない瞬間もあるということも覚悟しなくてはなりません。考えを変える事は当たり前のことであり、恥ずかしいことでも何でも無いと思っています。


純粋な喜びは圧倒的に成長する力を生み出すと感じます。




2012年1月16日月曜日

メメント・モリ

2012年となりました。
慌しい年末が過ぎ、瞬く間に新年が始まりました。

時事ですが、毎年恒例の日本漢字能力検定協会による
今年の漢字は「絆」ということです。
前年(2010年)の過去最高応募者数、28万票を21万票も上回り
49万6997票もあったそうです。ちなみに2位は「災」3位は「震」ということでした。2位3位はストレートです。当然、震災がインパクトのある出来事の表れだと感じます。

東日本大震災において一番の安否確認は「家族」
の次に「友人」へと続きました。まさに家族間の絆、
人との絆を再確認した年でした。
13日付の産経新聞にも「絆」について論説がありましたが、
戦後の日本における家族の絆は確固たるものがあり、
実は絆という言葉自体が特別なものではなかったということです。
確かに現代では先祖代々の家継を重んじるという意識は
一般的に薄れました。

おそらくおじいさんばあさんなどから離れて家族が暮らすといった、
核家族の増えた日本は、仕事の分散や、生活の便宜性以外にも、
家族の絆を重んじてきた堅苦しさの反動と言えるかもしれません。
しかしその背景にはもう少し人間の本質を感じます。
歴史小説や、歴史を扱った話を見ても分かりますが、
戦国時代における家系に関しての重要性や、執着はすざましいものがあります。
争と天災の違いといえどもやはり身の危険を常に感じる生活、
生死に密着した状況では、種を残す生命的な本能は、
絆は確固たるものであるといえるのかも知れません。

現代の日本人の生活は豊かで平和です。
途上国や治安の悪い国から戻った瞬間などには第一に感じます。
それであるが故に人との関係が薄くても生きてゆけるのです。
死者、行方不明者合わせ2万人近い今回の震災がもたらした衝撃は、
個々のつながりの必要性を改めて認識をさせられる出来事であると感じています。

やはり平和が当然となっている戦後に生まれた世代にとっては、
もっと「死を常に意識をして生きる」シフトへの移行をすべきなのかも知れません。メメント・モリです。(もちろんこれはすでに十分に死を背負って生きている方へ宛てた言葉ではありません。)

死はネガティブなこととして触れないようにするのが、
良いとは思いません。インドのガンジス河では平然と死体が焼かれ、
日常には当たり前のこととして誰もが目にする光景でした。
路上では、余った食べ物などは自分より貧しい人へ分け与えることが
当たり前となり、同時に施しを受ける側も当然のように受け取っていました。文化的背景なのか、死を受け入れた当たり前のことなのか、絆という言葉自体が存在しないようにも思えます。普遍的な心に残る戯曲や物語には必ずといって良いほど死が描かれます。死から程遠い明るい物語は瞬間的な楽しさはありますが、深い喜びと悲しみがあって始めて、深い人間の本質を見ることが出来る気がします。

生命体にとって豊かで平和なことが特別なのです。
死をごまかす事無く、いつ訪れてもおかしくは無い事として
受け入れ毎日を過ごすことが、絆を深め、
より自然で本質的な生き方になるように感じます。



自分自身は何をすべきか感じ考えながら、
日一日を大切にしたいと思います。


今年もよろしくお願いいたします。

2011年7月9日土曜日

火星の表現



美術館や、ギャラリーによく行く。




ともすれば踊りを観にいくことより多いかもしれない。
最近は現代美術展に行くことが多い。
スペインのAntoni Tàpiesや、大竹伸朗さんなど良いなと思った。
とにかくエネルギッシュでバンドも行う大竹さんの曲も惹かれる
ものがありCD2枚も持っている。

さて来月、8月の6日7日と青森の十和田市に行き、現代美術館で
パフォーマンスを行なう。又さらに刺激的なことに、現代美術家の
高木久美さんと共に行なうことになり、先日現地へ一緒に下見へ行った。
高木さんの作品もすでに東京で拝見し、とにかくとても柔軟であり
一貫したエネルギーは濁りが無く、本人から溢れる聡明さは作品へ
投影されソケリッサ!の無骨さとの見え方がどうなるか楽しみである。


十和田市現代美術館の展示構造は、箱型の個室がガラスの廊下に
よってつながり集合している造りで、その大きな個室ごとにそれぞれ
アーチストの作品が展示してあり、落ち着いたゆとりがある。
外内部も震災でのダメージも見当たらず、繊細な美術館の作品は
あの強烈な揺れにも耐えていた


時間の都合で駆け足での鑑賞だったけれども、様々な表現方、
テーマに対するアプローチの方法など作品鑑賞というものは万別で
純粋に楽しい。芸術作品を観ると思うが、作者の世界観には、社会状況
文化、年代、生活環境が影響はするだろうし、パッと惹かれる作品は
作者の強い個性と独自の発想力がある。


私自身ももっと違う踊り、作品を創造し、そしてもっと自由へなろうと
模索する思いが日々強くある。美術館には刺激が集まっている。 


私が芸術に触れ、日々よく考えるのはその先(未来)だ
我々は、、国や環境は違えど同じ地球という星に住み194ヶ国の国家の
ある、この世界というくくりの中、様々な表現形態が存在している。

絵画や、彫刻、建築に、言葉、身体・・はたしてこれらの自由さの溢れる
さまざまな表現形態が進む方向、到達しようとする行き先は皆
別なのだろうか。
我々の芸術の自由な発想の根源は、酸素が吸えて空が美しく
争いの耐えないこの地球で生み出されたことは間違いない。
そこから生み出される自由とは何だろう。
仮に我々の星が海もなく大気が希薄で、表面温度が最高でも
約20℃の火星が根源であれば、そこから生み出される表現は
地球のそれとは想像を絶する、まさに別の空間ほどの自由があるかも
しれない。

しかしながら火星人の表現が我々の心を大きく打ち、
地球人へ感動を与えるものかどうかはもちろん不明である。


「自由」を調べると
①心のままであるということ。思う通り。自在。
②一般的には、責任を持って何かをすることに障害がないこと。
自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の
自由は人間にはない。

広辞苑の抜粋だが、いかがだろうか。
①は解り易い。②に関しては、確かに事あるごとに本人の不自由を
他人や他のもののせいにしていてはいつまでも自由は得られないだろう。
強制的な支配でもしない限り周りが合理的に存在することなどあり得ない。
不自由をきちんと本人の責任として捉えたときに、自由の入り口が開く。
又、ピーターパンでの幸せの国ネバーランドのように、誰もストレスの無い
自由な国であれば自由という概念は存在せず確かに無条件的な絶対の
自由は人間にはないのだろう。

何かに支配をされ、閉塞感のある世の中。自由を!と叫ぶ人は多い。
しかしながらいざ自由となれば、単にカテゴリーの中からやりたいことを
選ぶという自由は人間の本来求めるべき自由とは何か違うと思う。
もちろん真の自由は、きわめて個人的な欲を開放し
人に危害を与えるというレベルでもない。


空を知らない籠の中の鳥や、お釈迦様の手の上の孫悟空のように
確かに我々の自由とは閉鎖された中でのちっぽけなものかもしれない。
しかしその次の自由へ行きたいという欲求は消すべきではないし
エネルギー溢れ、心惹かれる芸術作品にはカテゴリーや形式を打ち破る
強烈な主張が溢れている。

自由とは

②一般的には、責任を持って何かをすることに障害がないこと。
自由は一定の前提条件の上で成立しているから
無条件的な絶対の自由は”今の所”人間にはない。



未来は何が起こるかわからない。
科学か、人の進化か、新たな発見なのかわからないが。





「人の可能性は無限であるべきだ。」
と芸術作品達は叫んでいるように思う。













8月7日に青森市十和田市現代美術館にて踊ります
東北より躍動を発信できるように努めたいと思っています。
お近くの方は是非お越し下さい!!
日時:2011年8月7日(日)
場所:十和田市現代美術館 
1部=11:00~
2部=13:30~
出演:アオキ裕キ 新人H「ソケリッサ」
   GUEST ARTIST 高木久美/現代美術作家
   GUEST SINGER 桜田まこと/シンガーソングライター
※1部2部それぞれ30分~40分程度で
一続きの作品としてイメージし、構成しています。
お時間ありましたら、1部2部併せてご覧下さい。




2011年6月5日日曜日

前進の話


幼少の頃からの記憶をふと思い返す。

家族旅行で海で泳ぎ、楽しんでいる姿。
次に野良犬にほえられ泣きながら逃げ回り、以降は全くの犬嫌いになった。
次に友達と遊んでいて目の前でため池に転落し、
驚き震えながら懸命に助けた。
クラスメートが白血病になり幼くして亡くなる。
転校、初登校。中学時代、リーゼントの先輩に因縁をつけられ怯えた。
次にバスケットボール部の初試合、緊張のあまり吐き気をもよおし
開始早々交代させられた。これは思い出すと笑ってしまう。
中学までの記憶だけでも、悲しみや驚愕と様々だ。

最近では刺激多い海外に行く度に忘れられない出来事がさらに増える。
印象深い記憶を書き出すと結構たくさんあることに気づく。
しかし印象深い記憶をどうつなぎ合わせても、せいぜい人生の数割りにしか
満たないものだろう・・ネガティブ、ポジティブに関わらず心揺さぶる経験は
年を重ねると共に、自ら導く以外に減ってしまう。

どうやら強く印象に残っている記憶というものは、
行動と共に自身の感情が大きく動いた強烈な出来事だと思う。

とにかく感情が大きく動き、強烈に心を揺さぶる記憶は
けしていつまでも忘れはしない。
  
世の中が大きく変動した、東日本大震災の被災者は、家族を失い
津波の恐ろしさに直面し震えた。その記憶は、想像を絶するものであり
記憶は被災者にとって今後忘れるはずは無い。
どうすることが賢明だろうか
おそらくそれを上回る喜び、感動や躍動を得ることが生命力になり、
人々の前進、子供達の未来へと繋がる。
その源の一端を我々芸術家が担い、魂を揺さぶる躍動を与えていかなくては
ならないことだと改めて痛感した。


その驚愕の震災、約1ヶ月後の4月、母親が亡くなった。享年68才。
ガンだったがまさかこんなに早く亡くなるとは思っていなかった。
常日頃より人は死ぬことは当たり前のことで、生きていることが特別だと
感じてはいたが本当に衝撃的な出来事であり簡単に消化のできること
ではない。無理ではあるが、正直この悲しみはもういらない
誰にも味わってもらいたくない。
悲しみに慣れるということは単に麻痺をさせているだけのような気がする。
記憶にフィルターをかけているだけである。そのフィルターに頼るだけの
今後の人生はあまりにも保守的なものだ。



 
人は創造することに喜びを感じるように出来ている。
もちろんそれは物質的なものであるかもしれないし
目には見えないサービスかもしれないし、ルールかもしれない
家族があり子どもをつくりたい衝動はまさに自然の創造である。
とてつもなく大きな損失に対し、過去にこだわらず、新しい価値観を見出し
前進することは当然簡単ではないし負担も大きい。
しかし新しいものを創造することが自然な姿であるなら、
これから我々は、そして日本は何をすべきか見えてくるように思う。
   

2011年3月22日火曜日

シンポジウムのお知らせ


慶応義塾大学でのシンポジウムに出ます。
震災により開催が難しい状況でしたが、行なわれる予定です。
我々の行動が、日本の未来へ貢献できるように願っています。
是非ご観覧、ご参加いただきたいと願っています。


シンポジウム
 「コミュニティダンスの社会的・芸術的可能性~ソケリッサ!の試み、カドベヤの試み」
日時: 2011325日(金)18302100 @慶應義塾大学 三田キャンパス 来往舎ギャラリー  地図 http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html
総合司会: 横山千晶(慶應義塾大学教授)司会: 武藤浩史(慶應義塾大学教授)
パネリスト: アオキ裕キ(ソケリッサ! ダンサー、振付家)
       ソケリッサ! ダンサー
       花崎杜季女(地唄舞・花崎流家元)
       黒沢美香(コンテンポラリーダンス振付家)
       稲田奈緒美(ダンス研究家)
 【企画概要】
 慶應義塾大学が行う教育プログラム「身体知教育を通して行う教養言語力養成」の、キャンパス外拠点「カドベヤ」(横浜市中区)では、地域と学生の双方に開かれたアートとことばを活用したワークショップを、6月から週一回の頻度で開催してきました。教員、学生、アーティスト、地域住民の方々(寿町で暮らす生活保護受給者やホームレスの方も含む)が、共にからだとことばを使って動き、語り合い、体操やダンスを行うことで多くの成果を上げています。このワークショップを通じて見出された、アートとことばが多様な人々に及ぼす直接的、間接的、相互作用的な影響や効果を検証し、課題を抽出することで、今後の展開と可能性を探りたいと思います。パネリストは、カドベヤでワークショップを担当する舞踊アーティストと、ホームレスによるダンスグループ「ソケリッサ!」の主宰者・振付家とダンサーで構成します。最初に、ソケリッサ!とカドベヤのメンバーによる、ダンスのデモンストレーションを行って理解を深め、テーマを多角的に掘り下げ、多様な視点によって議論を行います。