2008年2月12日火曜日

どうぶつのススメ

飼い猫の「ハナ」が行方不明になりました。



拾った時、怪我をしていた子猫で、そろそろ2年近くなる仲です。

いつもは散歩に出ても30分くらいで戻りますが、
数時間経っても彼の鈴の音は聞こえてきません。

一般に外猫のテリトリーは、家を中心に
半径500メートル位と言われ道に迷うと
その場所からさらに少しずつ半径を広げるらしく、
迷い猫は早めの捜索が必要です。

しかし夜中の捜索もむなしく、朝になっても戻りません。

周辺道路には形跡は無いので、
交通事故ではない気はしますが・・。


・・いなくなって二日経ちました。

迷い猫の張り紙を作りました。
たまに電柱などで見かけますが、
まず出てこないだろう、と思っていた記憶があります。

他人事でしたが、自分が作る事になるとは、と、
まさに失笑ものです。

同時に良く取れた写真を載せようと見ているうちに
感傷的にもなってきました・・




お互いマイペースの関係でしたが、かなり寂しさが押し寄せます。

朝からチラシも配る予定です。

情報では、普段使用している猫のトイレの砂を、猫の通りそうな場所へ撒くと、
自分の匂いを元に戻ってくる事もあるとのこと

もちろんすべて実行です。



動物はとにかく何かと匂いをかぎます。
彼も、ところ構わず嗅いでいます。
食べ物にしろ縄張りにしろ、匂いは識別の重要なポイントです、
昆虫にいたっては、視力がそこそこであろうと生活に支障はないらしい。
さらに小さい生物は脳は無いに等しいものまでいます。

つまりは「感覚」で生きている。

人間以外の生き物はまさに「感覚」で生きています。



ここで踊りの話になります、


踊りは「思考」と「感覚」の波に浮かんでいるといえます。

・・覚えた振付を踊るのは「思考」

これはまさに人間業です、

(いつぞや振付を覚えたサルを見たこともありますが、
振付けをしたのはサルではなく人間です。)



・・状況に身をゆだねるのは「感覚」

舞台に立てば観客の視線はおのずとすべてに注がれます。
そこで観客の視線をしっかりと感じ、

おのれの緊張もすべてそのまま受け止めます。

観客は表現者の身体の内外の使い方、表情の一つ一つ、目線に瞬き、
すべては表現として受け止めているはずです。

緊張はごまかそうとするのでなく、大事なのはその感覚をも受け入れる事です。
ごまかせば必ずほころび、違和感が見えてきます。

つまりそこで自分をどう見てもらうのか、何を伝えるのか、
その空間にピリッと観客と表現者のコミュニケーションが生まれるのです。


まったく振付も無くし、「思考」を排除した場合の動きは動物的であり、
逆に「感覚」を拒否していけば、機械的に見えてくるということです。


これは人の日常でも同じ事。


何も考えずに行動する人間は動物的に見え、
すべて行動を考えて計算する人間は、機械的に見えますね。


「思考」と「感覚」の波に漂うのです。


ところが、両方を兼ね備えてる人間のはずですが、お判りの通り
近代化に伴い「感覚」をないがしろにしてしまっています。

それは言い換えれば現代社会に、合わせて生きていくという、手段でしょう・・


しかし人間は生き物、「感覚」は必要です。


例えば健康に関して一番シンプルな事は、
サプリメントでも薬に頼るでもなく「感覚」を利用することです。

重要なのは、まず自分の呼吸の深さと、呼吸のスピードを認識することです。

これは大事です。

自分自身の内側に対しての意識が薄くありませんか?

とにかく体が緊張していれば、必然と呼吸は浅くなり、速くなります。
体内の酸素供給が悪いとなれば、臓器にはストレスと負担がかかるのは当然です。

自分の体格に合ったゆったりとした呼吸を心がけます。

日常の自分の表情はどうでしょう?気がつけば奥歯をかみ締めていたり・・

ここぞというとき意外は、身体は固めずリラックスする事が自然なのです。

日常を映像に収めると、理想とかけ離れた自分の表情やしぐさに、
がっかりする人が多いかも知れません。

「感覚」は使えばおのずと身体の信号を心に伝えるようになり、

状況の判断をしてくれるはずです。

ダイエットにしても、本当に空腹なのか、もしくはストレスを埋めるために食べているのか・・
体の感覚を感じる事もできなくなり、すべてを空腹の文字でくるんで食べていれば、

当然脂肪は増えるでしょう。



とにかく、人以外の自然界の生き物は、

「余計な捕食をしない」

「病気で亡くならない」

ということです。

死ぬのは餌食に、怪我や寿命。

これは実はすごい事だと思っています。



人は「思考」と「感覚」の力で文明をつくり、様々なモノを創造してきました。

どちらかが欠けても今日の状況は無かったことでしょう。

「感覚」は失っていないはずです。

芸術にしろ、思考や、建造にいたるまで、
本当に人の為になっているモノは、双方のバランスが取れた賜物と感じます。

ちなみにこのブログは、「クリエーターズブログ」といいますが、
クリエーターという職は特別ではありません。

人は皆本来、クリエーターだと思っています。
本能にインプットしてあるはずです。

ただその本能を使う瞬間に差し迫っていないだけ、
もしくは生活環境、教育環境での影響があるかもしれません。


人はたとえ仕事や習慣になってなくとも、生きる事に強く情熱を傾けた時、
頼るのは自分の身一つになった時、何かを見つけ、何かを創り出せると思っています。


太古より先代はそうやって「思考」と「感覚」を使用し、工夫を重ね発展し生きてきたはずです。



自分は、動物の「病気にならない」という生き方は、
人間にとってもありうると感じます・・



いやいや、病気になるのは寿命を延ばしたツケ、
もしくは病気は「思考」に付いて回るものなどと、言われそうですが、

今回は「思考」での探求はやめましょう・・

夢のある話で終わらせます。





飼い猫の「ハナ」がいなくなった事で、
動物についての認識が少し深まりました。
動物は皆仲間です、しっかり共存していかなくては・・



今パソコンに向かっている自分の横で、「ハナ」は寝ています。

彼は猛烈な勢いで、三日目の早朝に、飛び込んで帰ってきました。

ばらまいた便所の砂の匂いのおかげ、”嗅覚”をどこまで利用したのかは解りません。



最後に

「ハナ」は「花」からつけた名前です。





・・今回はこの辺で

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ