2011年7月9日土曜日

火星の表現



美術館や、ギャラリーによく行く。




ともすれば踊りを観にいくことより多いかもしれない。
最近は現代美術展に行くことが多い。
スペインのAntoni Tàpiesや、大竹伸朗さんなど良いなと思った。
とにかくエネルギッシュでバンドも行う大竹さんの曲も惹かれる
ものがありCD2枚も持っている。

さて来月、8月の6日7日と青森の十和田市に行き、現代美術館で
パフォーマンスを行なう。又さらに刺激的なことに、現代美術家の
高木久美さんと共に行なうことになり、先日現地へ一緒に下見へ行った。
高木さんの作品もすでに東京で拝見し、とにかくとても柔軟であり
一貫したエネルギーは濁りが無く、本人から溢れる聡明さは作品へ
投影されソケリッサ!の無骨さとの見え方がどうなるか楽しみである。


十和田市現代美術館の展示構造は、箱型の個室がガラスの廊下に
よってつながり集合している造りで、その大きな個室ごとにそれぞれ
アーチストの作品が展示してあり、落ち着いたゆとりがある。
外内部も震災でのダメージも見当たらず、繊細な美術館の作品は
あの強烈な揺れにも耐えていた


時間の都合で駆け足での鑑賞だったけれども、様々な表現方、
テーマに対するアプローチの方法など作品鑑賞というものは万別で
純粋に楽しい。芸術作品を観ると思うが、作者の世界観には、社会状況
文化、年代、生活環境が影響はするだろうし、パッと惹かれる作品は
作者の強い個性と独自の発想力がある。


私自身ももっと違う踊り、作品を創造し、そしてもっと自由へなろうと
模索する思いが日々強くある。美術館には刺激が集まっている。 


私が芸術に触れ、日々よく考えるのはその先(未来)だ
我々は、、国や環境は違えど同じ地球という星に住み194ヶ国の国家の
ある、この世界というくくりの中、様々な表現形態が存在している。

絵画や、彫刻、建築に、言葉、身体・・はたしてこれらの自由さの溢れる
さまざまな表現形態が進む方向、到達しようとする行き先は皆
別なのだろうか。
我々の芸術の自由な発想の根源は、酸素が吸えて空が美しく
争いの耐えないこの地球で生み出されたことは間違いない。
そこから生み出される自由とは何だろう。
仮に我々の星が海もなく大気が希薄で、表面温度が最高でも
約20℃の火星が根源であれば、そこから生み出される表現は
地球のそれとは想像を絶する、まさに別の空間ほどの自由があるかも
しれない。

しかしながら火星人の表現が我々の心を大きく打ち、
地球人へ感動を与えるものかどうかはもちろん不明である。


「自由」を調べると
①心のままであるということ。思う通り。自在。
②一般的には、責任を持って何かをすることに障害がないこと。
自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の
自由は人間にはない。

広辞苑の抜粋だが、いかがだろうか。
①は解り易い。②に関しては、確かに事あるごとに本人の不自由を
他人や他のもののせいにしていてはいつまでも自由は得られないだろう。
強制的な支配でもしない限り周りが合理的に存在することなどあり得ない。
不自由をきちんと本人の責任として捉えたときに、自由の入り口が開く。
又、ピーターパンでの幸せの国ネバーランドのように、誰もストレスの無い
自由な国であれば自由という概念は存在せず確かに無条件的な絶対の
自由は人間にはないのだろう。

何かに支配をされ、閉塞感のある世の中。自由を!と叫ぶ人は多い。
しかしながらいざ自由となれば、単にカテゴリーの中からやりたいことを
選ぶという自由は人間の本来求めるべき自由とは何か違うと思う。
もちろん真の自由は、きわめて個人的な欲を開放し
人に危害を与えるというレベルでもない。


空を知らない籠の中の鳥や、お釈迦様の手の上の孫悟空のように
確かに我々の自由とは閉鎖された中でのちっぽけなものかもしれない。
しかしその次の自由へ行きたいという欲求は消すべきではないし
エネルギー溢れ、心惹かれる芸術作品にはカテゴリーや形式を打ち破る
強烈な主張が溢れている。

自由とは

②一般的には、責任を持って何かをすることに障害がないこと。
自由は一定の前提条件の上で成立しているから
無条件的な絶対の自由は”今の所”人間にはない。



未来は何が起こるかわからない。
科学か、人の進化か、新たな発見なのかわからないが。





「人の可能性は無限であるべきだ。」
と芸術作品達は叫んでいるように思う。













8月7日に青森市十和田市現代美術館にて踊ります
東北より躍動を発信できるように努めたいと思っています。
お近くの方は是非お越し下さい!!
日時:2011年8月7日(日)
場所:十和田市現代美術館 
1部=11:00~
2部=13:30~
出演:アオキ裕キ 新人H「ソケリッサ」
   GUEST ARTIST 高木久美/現代美術作家
   GUEST SINGER 桜田まこと/シンガーソングライター
※1部2部それぞれ30分~40分程度で
一続きの作品としてイメージし、構成しています。
お時間ありましたら、1部2部併せてご覧下さい。




2011年6月5日日曜日

前進の話


幼少の頃からの記憶をふと思い返す。

家族旅行で海で泳ぎ、楽しんでいる姿。
次に野良犬にほえられ泣きながら逃げ回り、以降は全くの犬嫌いになった。
次に友達と遊んでいて目の前でため池に転落し、
驚き震えながら懸命に助けた。
クラスメートが白血病になり幼くして亡くなる。
転校、初登校。中学時代、リーゼントの先輩に因縁をつけられ怯えた。
次にバスケットボール部の初試合、緊張のあまり吐き気をもよおし
開始早々交代させられた。これは思い出すと笑ってしまう。
中学までの記憶だけでも、悲しみや驚愕と様々だ。

最近では刺激多い海外に行く度に忘れられない出来事がさらに増える。
印象深い記憶を書き出すと結構たくさんあることに気づく。
しかし印象深い記憶をどうつなぎ合わせても、せいぜい人生の数割りにしか
満たないものだろう・・ネガティブ、ポジティブに関わらず心揺さぶる経験は
年を重ねると共に、自ら導く以外に減ってしまう。

どうやら強く印象に残っている記憶というものは、
行動と共に自身の感情が大きく動いた強烈な出来事だと思う。

とにかく感情が大きく動き、強烈に心を揺さぶる記憶は
けしていつまでも忘れはしない。
  
世の中が大きく変動した、東日本大震災の被災者は、家族を失い
津波の恐ろしさに直面し震えた。その記憶は、想像を絶するものであり
記憶は被災者にとって今後忘れるはずは無い。
どうすることが賢明だろうか
おそらくそれを上回る喜び、感動や躍動を得ることが生命力になり、
人々の前進、子供達の未来へと繋がる。
その源の一端を我々芸術家が担い、魂を揺さぶる躍動を与えていかなくては
ならないことだと改めて痛感した。


その驚愕の震災、約1ヶ月後の4月、母親が亡くなった。享年68才。
ガンだったがまさかこんなに早く亡くなるとは思っていなかった。
常日頃より人は死ぬことは当たり前のことで、生きていることが特別だと
感じてはいたが本当に衝撃的な出来事であり簡単に消化のできること
ではない。無理ではあるが、正直この悲しみはもういらない
誰にも味わってもらいたくない。
悲しみに慣れるということは単に麻痺をさせているだけのような気がする。
記憶にフィルターをかけているだけである。そのフィルターに頼るだけの
今後の人生はあまりにも保守的なものだ。



 
人は創造することに喜びを感じるように出来ている。
もちろんそれは物質的なものであるかもしれないし
目には見えないサービスかもしれないし、ルールかもしれない
家族があり子どもをつくりたい衝動はまさに自然の創造である。
とてつもなく大きな損失に対し、過去にこだわらず、新しい価値観を見出し
前進することは当然簡単ではないし負担も大きい。
しかし新しいものを創造することが自然な姿であるなら、
これから我々は、そして日本は何をすべきか見えてくるように思う。
   

2011年3月22日火曜日

シンポジウムのお知らせ


慶応義塾大学でのシンポジウムに出ます。
震災により開催が難しい状況でしたが、行なわれる予定です。
我々の行動が、日本の未来へ貢献できるように願っています。
是非ご観覧、ご参加いただきたいと願っています。


シンポジウム
 「コミュニティダンスの社会的・芸術的可能性~ソケリッサ!の試み、カドベヤの試み」
日時: 2011325日(金)18302100 @慶應義塾大学 三田キャンパス 来往舎ギャラリー  地図 http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html
総合司会: 横山千晶(慶應義塾大学教授)司会: 武藤浩史(慶應義塾大学教授)
パネリスト: アオキ裕キ(ソケリッサ! ダンサー、振付家)
       ソケリッサ! ダンサー
       花崎杜季女(地唄舞・花崎流家元)
       黒沢美香(コンテンポラリーダンス振付家)
       稲田奈緒美(ダンス研究家)
 【企画概要】
 慶應義塾大学が行う教育プログラム「身体知教育を通して行う教養言語力養成」の、キャンパス外拠点「カドベヤ」(横浜市中区)では、地域と学生の双方に開かれたアートとことばを活用したワークショップを、6月から週一回の頻度で開催してきました。教員、学生、アーティスト、地域住民の方々(寿町で暮らす生活保護受給者やホームレスの方も含む)が、共にからだとことばを使って動き、語り合い、体操やダンスを行うことで多くの成果を上げています。このワークショップを通じて見出された、アートとことばが多様な人々に及ぼす直接的、間接的、相互作用的な影響や効果を検証し、課題を抽出することで、今後の展開と可能性を探りたいと思います。パネリストは、カドベヤでワークショップを担当する舞踊アーティストと、ホームレスによるダンスグループ「ソケリッサ!」の主宰者・振付家とダンサーで構成します。最初に、ソケリッサ!とカドベヤのメンバーによる、ダンスのデモンストレーションを行って理解を深め、テーマを多角的に掘り下げ、多様な視点によって議論を行います。

2011年1月2日日曜日

泣くウサギ

あけましておめでとうございます

昨年夏に行なったソケリッサ!の公演は、
東京だけでなく大阪へも初上陸。
地方公演は当然とお金が多く必要で
夏より練習+仕事+アルバイトの日々でした。
ソケリッサ!は5年経ったがまだまだ
協賛金を集めるには苦労しています。


さてアルバイトは駅前の和食屋でランチタイムの皿洗い
調理補助等で、週4日間昼過ぎまで働く。
これが客足は緩むまもなく、又次々と待たせることなく
料理を提供しなくてはならない。
商売とは経済の展開スピードに合わせていくことが
必要なのだろうとつくづく思う。
そして顧客の需要に答え、満足を提供することが
お金を得る為の流れである。

それに比べるとソケリッサ!を始め私の求める芸術は
生産効率も良くは無く、出来上がったものを受け取る
顧客の数も 限られてしまう。需要のある(売れている)
ようなスタイルの良い若者でもない、路上のおじさんである。

つまり世の中の主流には反している


もちろん私自身はこの理解をもって創作をしている。
しかしながら今年はもう少しお折り合いを付けて行かなくては・・と思う。

世の中の仕組みであるが、お金を大きく生み出し、
経済を発展させているのは流行であり、新製品であるともいえる。
そしてその流行にのり、新製品に追従し重要に応えれば
お金になる。

しかし今や流行は使い捨てで、10数年経てば
新製品も懐かしいものとなり「表面的なモノ」であれば
100年後には形も何もなくなり行く。
ここでの「表面的なモノ」とは人の心を動かさない
モノということである。

「人の心を動かすモノ」とはなんだろうか・・

それはすでに目の前にある自然そのものであろう
その美しさは普遍的であり、何百年経とうが心を大きく
揺さぶるものとしてそれは永遠に残る。

自然とは山や海など人工的なものではない
あるがままのものであり、動植物はもちろん
子供は自然の産物そのもの
普遍的に美しい。


やはり元来人間も自然の一部なのである。
その人間がより人間的に苦労し生み出した
モノは人の心に響き、色あせることも無い・・
先駆者は何年も残る

混乱しそうだが、流行は派手で魅力的なものに出来ている
しかも新しいものは、刺激に溢れなおさら目を引く。

大切なのは折り合いでありバランスであり混沌を見る力である。
何を善しとして生きていくかは、その人次第であり
混沌のなかで何を生み出したいかということかもしれない。

順応してしまうことは簡単なんだが・・

さて見事に流行と普遍的なモノが混ざっている象徴はテレビである。
実は家のテレビは2年前に配線をウサギにかじられて
から無い。これは文明排除でもなんでもなく
デジタルだのどうのこうので買わずにいたら慣れてしまった。

ちなみに家で飼っているウサギはクロと茶の2匹で
日替わりで家の中を放し飼いにしていている

昨年の夏、そのウサギがトイレで涼んで昼寝をしていた時の話。
以前も述べたが築40年の我家は水洗ではなく汲み取り式
汲み取り作業時の音は「グゴーッ!」と凄まじい。

漫画のようだがその音に驚き飛び上がったウサギは
トイレの中に転落をしてしまった。

その日はちょうど在宅中で、表から作業のおじさんの
「おーっ!なんか落ちてきたぞー!」という叫び声が聞こえた。
トイレを覗くと底でウサギが吸い取るホースと共に驚き跳ね回っている。
幸いホースの太さもウサギより小さく、上手い具合に驚き飛び跳ねるウサギ
をよけておじさんは綺麗に掃除を終えた。

汲み取りトイレは使用側からは底が深く、手は届かないのだが
屋外の作業用のふたを開けると手が届く。
ウサギを救出し、風呂場にほり込んで洗った。
2匹いるうちの茶の方であった。

それにしても驚いたし、当然ウサギのあわてぶりもすごかった。
必死にトイレの底から何度も跳ね上がり、鳴いた。

「キューッ!」という声で、ウサギの鳴き声を聞いたのは
後のも先にもそれきりである。

話が芋づるに逸れました

とにかく今年は泣く年にならぬよう祈ります。











今回はこの辺で・・