2009年9月27日日曜日

刺青のある景色2

「芸術には人を成長させる力がある。」



人は表現をし、自分自身を他人へ認知させようとする。
私はここに存在している!という魂の叫びである。

外見へ美の追求はもちろん、外観的なファッションや装飾類、
奇抜であったり、地味であったり色使いも様々だ。

ブランド品など持ち物にこだわりを持つこともあるだろう。
何にお金をかけるかで、その人のこだわりの表現が見える。

又車好きな人の中には、改造し、
スピードを出して走りたくなるかもしれない
暴走族の騒音もいわば表現である。

内面的な思考部分においては、より崇高さをもとめたり
排他的にふるまったり、こだわりは皆違いがある。

なるだけ目立つことを避け、より一般的に収まろうとしていても
他人の倍、勉強に時間を費やしているかもしれないし
実はゲーム技術を追求しているかもしれない
自分のためはもちろん、人のためにお金を稼ぐ事に
努力を惜しまない人もたくさんいる


他人より秀でている部分、秀でようとする意欲は、
”多かれ少なかれ”一般的に人には備わっている。

人は表現をして、生活している。

さて”多かれ少なかれ”と述べたのはもちろん理由がある。
周りの状況によって表現の衝動を抑制されていたり、
成長してきた環境によっても、それぞれの表現意欲は
大きく異なってくるからである。

やはり人は周囲より認めてもらえない時のストレスは大きい。
その場合、何らかの違う表現手段を選び、再挑戦すればいいが、
ストレスを軽減するため、自分をごまかしたり、
周囲に対しての愚痴をこぼし自分を正当化したりする
(これも表現といえる)だけになることもあるだろう。



特に子供は心身にエネルギーが、満ち溢れている、
そのエネルギー溢れる表現に大人がしっかりと関心を示し
良し悪しに答え反応しなければ、犯罪を犯し、
自身の存在を知らしめる方向へそのエネルギーが進む事は否めない。

周知だが、子供に関して生活環境は、
その人格育成に強烈な影響を及ぼす・・。

ここより主題になる

先日、少年刑務所に参観することが出来た。

ちなみに一般の人が簡単に、刑務所参観することは難しい、

私は「芸術的観点からの目線で社会知識を得たい」という
趣旨を関係者に理解してもらえたこともあり
運よく参観することが出来た。
見学という方が、その感覚には合う。

今後、刑事施設と、どう芸術でのかかわりを持つかは、明確でない・・
刑務所それぞれシステムが違い、又、日本の刑務所の総てを
把握したわけでもない。今から述べるそこで感じたことは
あくまでもまだ主観の枠でもあるゆえ
慎重な発言をすべきであり、名称の表記
状況の明言は避けることにする。

そこへ収容されているのは刑期8年未満、26才未満の男子である。
収容者の平均年齢約25歳、平均収容期間約3年半。
1000人以上の収容者と規模は大きい。

裁判で刑罰を言い渡されたものが収容され処遇し、
再び罪を犯さない人として社会復帰させることを目的として、
改善更正の意欲の喚起、社会適応能力の育成に努めている。


・・・到着後さっそく収容者の施設に立ち入り
日常作業を見ることになった。

頑丈な扉を案内人の教官が開けると、ブザーが大きく鳴り響く。
扉を閉め、施錠すると鳴り止む仕組みである。
3メートル先にも同じように頑丈な扉があり
そこから開けると収容施設である。

扉や窓に、鉄格子があるものの、昔の学校のような感じである。

前方に8名程収容者が行進をして来た。
教官が一人付き、その号令にあわせ歩く。
「1、2、1、2」低音の力強い声で足並みを合わす。
全員、薄いグレーの作業服を着て、作業帽子をかぶって、
前を見据え行進している。

号令をかけていた教官が、私達に気づくと、
「停止、右を向いて待機」とその収容者に声をかける。
私達の通り過ぎるまで、背を向けて待つのである。

収容部屋を見る。
20メートル近くある(ように見えた)廊下の両側に
鉄格子の扉がずらりと並んでいる。
作業中のようであり、収容者はいない。
見せてもらった部屋は、4畳程の空間である。
トイレが奥の窓下にあり 便座に座った下半身が
隠れる程度のついたてが手前にある。

その手前にはテレビがあり、
その下には靴箱を大きくした程のロッカーが2台
ダイヤル式の鍵が付いており、その中に
持ち物をしまえるようになっている。

借りた本、勉強道具などロッカーに入れば
数量は関係なく所持できるということだ。
布団が畳まれて角をそろえ重ねられており
とにかく徹底して掃除されている。

そこは2人部屋である
見渡すどの扉にも名前が2つ貼ってあった。

完全な個人の空間はそのロッカーだけであろう。
当然そこ以外は他人の関与は避けられない状況である。

その空間で生活をする。

恐らくそこでは物質的な個人表現は出来ない。
着る物も規定がある、社会で金持ちだろうが皆同じ状況であり、
号令と共に足並みをそろえ、生活をする。

そこで人はどういう感覚になるのか・・
人にとって罰とは・・

説明できそうである。


話はいったん戻り、続いて作業場である。
そこでは収容者がずらりと並び、黙々と作業をしていた。

その前を歩く。印象に残る景色であった。





続きは次に・・

2009年9月18日金曜日

刺青のある景色

テリトリーの話。

最近家の近所は、道路工事が多い。

区画整理である。
実は私の家の区域も対象であり
気に入っているこの家も、いずれかは離れる事になる。

まあ仕方が無い。

それにしても、大型トラックを見てると、
ぶつからずにトラックぎりぎりの道幅であろうが
いともたやすく狭い道をすり抜ける。

・・先日、井の頭公園に、1.2メートル程のどっしりとした
木の枝が落ちていたので、その枝を持って踊ってみた。
枝の先に、木の葉や、樹木、土が触れる。

恐らく目を閉じてもその先に触れるものは誰もが
判別できるだろう・・枝の先に感覚がある。

つまり、それは物質体であろうが、身体の一部になっているようである。

乗用車から大型トラックの運転手
ジャンボジェットのパイロットや
巨大タンカーの船長まで、皆乗り物の大きさを感知し
生身の運転手の感覚が物質体であるモノの全体に入り込み
コントロールしているのである。

それはまさに運転手の一部である。
純粋に人間の能力はすばらしい。



しかしモノには”個人的”な占有意識が大きく入り込めば、
別の感覚が芽生える。

例えば購入した車、もちろん家、洋服や、装飾品
(高価であればなおさら占有意識が強く沸く傾向を感じる)
所有物やモノに、持ち主の身体意識が及び、
生物的保身感覚が強まっていく。

つまり身体のテリトリー(領域)となり、
気持ちの上でも身体の一部となる。

例えばこのような見解はどうだろう・・

他人の車と当たる、接触事故があったとする。
停車中の車にこつんと当たって、怪我も何も無いとする。
当てられた側は、1センチの傷が付いて、血相変えている。
つまり、当てられた側は、高価なものという感覚だけでなく、
受動的立場であり、身体テリトリーが傷付いて、
自分自身が傷ついてしまったように思えるようにも見える。

当たった側は、言い換えれば他人のテリトリーに侵略した
能動的立場であり、同じ傷が付いても、身体テリトリーが
傷ついた感覚はさほど無く、傷を付けた(ある種のテリトリー侵略行為)
にたいして、申し訳なく思う気持ちが前に出るのではなかろうか・・

次に・・

ボストンバッグを肩に駅を歩くとする、すると前方から急ぎ足で来た人が、
バッグに接触しそのまま急いで通り過ぎていく。

バッグに当たり、バッグがゆれたのは確かだが、
こちらは怪我も何も無い。ここでも受動的立場の感覚である側は、
バッグを持ち歩くこちら側で、身体テリトリーが侵されたことになる。

そして占有意識が強ければ、怪我が無くともストレスを感じるのである。

急いで通り過ぎた側は、用事で急いでいたのかもしれない、
故意に当たった意識も無い、能動的感覚の立場であれば
意識はそこにはたいして残っていかないように思える。

不思議なものである。

テリトリーはいわゆる縄張りである。
だれでも自分の空間、心の領域に安易に他人が入り込めば躊躇する。
動物として縄張りを持ち安心したいのは当然である。
しかし常に縄張りを拡張しようとすることに目を向ける傾向は、
人特有の自我の働きであるが、他人と自分を比べる事にも度がある。

物質に頼らず、態度、言葉で威嚇する方法がある。
周りが危険とみなせば侵入者は減り、テリトリーは守られる。
若しくは身を潜め、なるたけ目立たなくするか。

いずれにせよそれも人間的で、否定はしないが、
そこにこだわっているとストレスは溜まりヒステリーになるだろう。


裸の状態、または総ての人が同じ服に身をまとい
何らかの理由で物質的に誇示できない場合

人間の本質がそこで初めて浮き彫りになるのである。



実は先日、とある少年刑務所を参観した。



・・つづきは後半へ

2009年9月8日火曜日

ストリートワイズオペラ、ワークショップ回想録

「ストリートワイズオペラ」
のワークショップに参加してきました。

場所は横浜の「にぎわい座のげシャーレ」にて、
内容はストリートワイズオペラの手法を学ぶというものでした。
代表のマットピーコック氏の話から始まり、後半はワークショップリーダー
ドミニク・ハーラン氏によるワークショップを体験。

すばらしい時間でした。

イギリスと日本では、ホームレスの人の年齢層
(イギリスでは平均年齢が若く40代が多い、ちなみに
推定50万人のホームレス生活者がいるとの事)
又オペラと踊り、文化的感覚の違いはもちろんあれども
ホームレスの人による芸術制作を楽しんでいるのは同じ。

毎週日曜に、イギリス11箇所でワークショップを行い
各場所12人前後の参加者と共にオペラを作り上げていく。
その規模は大きい。

それにしてもそこで作り上げたノーハウを、
さらに世界に知ってもらおうとする意欲、その姿は響きます。

学びました。