2010年12月4日土曜日

「笑う土」踊ります。






一昨年、ブラジルにて公演を行なった、
加藤みや子さん演出「笑う土」今月、再度東京にて上演いたします。
思えばこの作品は、2007年より参加をして上演を重ね3年が経ちました。
私自身時と共に、当然3年前とは違う感覚で身体を動かしています。
同じ作品を続ける中に発見がありますね。
以前観た方も観て欲しいです。

11日に上演する加藤みや子さん、伊藤キムさん、笠井叡さんの出演
「SAND TOPOS」と是非セットでご覧下さい。

2010年12月11日(土)「SAND TOPOS」15時~、19時~
         12日(日)「笑う土」「日記」14時30分~、17時30分~

新国立劇場 小劇場にて 

詳細はアネックス仙川ファクトリー HPにてご確認下さい。






2010年7月10日土曜日

ソケリッサ!夏公演のお知らせ。

        


ソケリッサ!第三回 舞台公演 決定しました。
いよいよやります。
当初よりソケリッサ!は三作品で一区切りをつけようと思っていました。
終わりではなく、ここより次の展開を目指そうと思います。
観ていない方は、是非一度ご覧下さい。
今回は、東京と大阪で行います。
公演数は多くないので、お早めのご予約をお待ちしています。

新人H「ソケリッサ!!!」全知全能!

20108月15日 15時~、19時~ 新宿シアターブラッツにて
2010年9月28日 19時~ 大阪 精華小劇場にて
前売2500円 当日3000円
電話申し込み 080-7010-9655  080-7010-9663
Email:sokerissa@gmail.com もしくは
ソケリッサ!のHP左記お問合せフォームより送信してください。

今回はチケットはありません。
当日会場での現金お支払いになります。
予約時に日時、枚数、お名前と御連絡先をお知らせ下さい。
満員となり次第〆切とさせていただきます。

皆さんのお越しをお待ちいたします。


シアターブラッツ HP http://www.theater-brats.jp/
精華小劇場 HP http://seikatheatre.net/


2010年4月18日日曜日

リラックス講座

いつも踊りを踊る前には寝転んでぼーっとする
思考を無くし、植物のようにただ呼吸をしている状態で
しばらくぼんやり・・

外側の世界に目を向けるのではなく
自分の内側の世界に目を向ける時間をつくる。

それから身体を動かすのである。


それにしてもこの目まぐるしい日常生活は当然のように
衰える気配は無い、社会に密接して働く状況では、
自分の身体に目を向けることは二の次になり
どうしても仕事や、社会の移り変わりといった方に
気がいくことの方が増えてしまう


我々は自分自身をコントロールして
人と出会いリアクションをする
人前で踊る時に、晩御飯のメニューを考えていたり
猫の餌やりを忘れたことを悔やんでいてはまずい
それならば晩御飯の踊りや、猫の餌やりダンスをすれば
良いのであるが

とにかく内面と外面は同じ方向を向いていなくては
その表現は単なる形式であり、そこには魂も
何も存在しない、もはやどうでもいいものになる。
人には何も伝わらないものになる。

内面と外面がしっかりとリンクをして生きることは
我々にどう影響してくるのであろうか?

日常生活で言えば心のこもっていない状態
つまり感謝のないおじぎや、尊敬のない褒め言葉など
一見心の内では違っても形がしっかり出来ていれば、
その瞬間は解らないかもしれない。

しかし内面と外面のズレは我々の身体にとって
ストレスとなる。思考、感情、意識、肉体
総てをひっくるめて身体なのである。
外側だけで体裁をとる事は必ず身体に変調を
きたしてしまう。緊張で腹痛になったり、
恥ずかしくて頬がほてったり、恋をして
胸がキリキリなんてのはおそらく誰しも経験があり
身体の内と外は驚くほど強烈に密接である

内面と外面をリンクさせる。
自分本位で怒ってばかりいるのはまずいが
頭にくれば態度に出せる方がまだ良い

それにしても人間とは本当に大変である
二足歩行をするようになったおかげで
日常生活では、常に人は重力に反発し
前後にバランスを取りながら行動し、
重い頭を支えている。
(これはすごい事である。)
その上思考が発達し、仕事、生活、人間関係、
健康、何かと休めることなく考え事をして
頭を悩ませている・・
これでは身体の負担が多いのは当然だ



大雑把だが、筋肉は緊張と緩和の
二種類の運動しかしない
ぼんやり寝ころんで、ふーんと空気を吐いていけば
筋肉のゆるみが解る。
筋肉のゆるみは内面のゆるみにつながる事であり
本来の身体のリラックスを目指す。仮に様々な思考が
頭の中に浮かんでも、そこに追従せず、放っておくこと
自分の心臓の鼓動を感じ、その鼓動が速かろうが、
身体がリラックスしなかろうが、そのまま認識する
のみである。いけないのは、思い描くリラックスという
イメージ通りにリラックスできない・・うーん
などと我が身を攻めることである。
そうなるとそこに思考や感情が持ち上がってくる
とりあえず過去も先も何も考えず感情も切り離す。
ネガティブな感情はゆったりとした呼吸を妨げる。

ぼんやり見える景色、空気の匂い、聞こえてくる音
何かに接触している皮膚の感触もあるだろう、
心臓の鼓動、脈、呼吸等・・
それらをただぼんやり受け入れるのみである。

もちろんなかなか身体をゆるめることが
困難な人も当然いる。理由は様々だが
強度に心配事やプレッシャーに囲まれ
生活をしていたり緊張が常になると
緩める感覚は認識しづらくなる
硬い身体を柔軟でやわらかくするというよりも、
リラックスをするという感覚である
筋肉をゆるめるという感じで捉えた方が良い
緩めないから硬くなると捉えるのだ。

ちなみに踊りの場合も身体が硬くて
踊れないことはない、そこにはその人の身体
の歴史が見えてくる説得力はある
(ソケリッサの見せ方の一つもそこにあるのだろう
しかしもう4年も踊っているおじさん達においては
すっかりリラックスをして動くようになってきた・・。)

筋肉は動かさないでいると脳がどんどん動かさなくても
良いのだと判断して、血液の流れを止めようとして
しまうらしい・・動かさないとまずい

ゆる体操で有名な運動科学総合研究所の
高岡英夫さんはとにかく身体をゆらゆらゆらす、
それが身体にとっては良いのだ。
同感です。
子どもを見ていると片時もじっとせずなにやら
動いている。これは身体の自然な命令なのだ
動かない方が逆に身体が疲れてしまう
エネルギーを溜めずにどんどん放出しているのが
わかる。子どもは動き回って健康であり、
「大人しくなさい!」と常に押さえるには無理がある。
同時に、重力に対してバランスを取りきれない
弱い筋肉では動くことで均等に筋力を上げ
ボディバランスを作り上げていくのだろう

筋肉の緩和がなければ転んだり、
怪我をしやすいのはもちろんだが
身体は疲れやすくなり、どうも自身を開放しきれない
言い換えれば、開放しきれないから緩和が出来ない
エネルギーは大人も当然開放しなくてはならなが
日本の状況に関しては、閉塞感が依然立ち込める


それにしても世界で1、2の豊かさを持つ日本なのだが、
自ら命を落とす数はアメリカの2倍
しかも動機の一位が健康による悩みである。
良い暮らしをし、良いものを食べてもこの傾向は
バランスが悪いの何者でもない。

現代人が江戸時代、真剣勝負に挑めば
がちがちの緊張した筋肉で刀を振りかぶった
その瞬間に動きは読まれ、いとも簡単に
ばっさり切られてしまう
生きるためには力まず緩めるということ

生命体はやはり自然体であるべきなのだ。
人間は大変なのだがそうあるべきである。

時に草木のようになるのも良い


さてHOWto本のようになったが
最後にもう一度くりかえすと

思考、感情、意識、肉体を一度分離をする
そしてもう一度まとめることは重要である。
そうすれば自分自身が少しはコントロール
しやすくなるはずである。
外に向けてる目をたまには内に向ける
そして自分の状況を模倣せずに
「なるほど・・今はこんな感じなのか」
と知ることである

飼い猫のハナが傍にいて
窓の景色をぼんやり見ている
身体をなでてみる・・
こりも無く、すばらしい肉体である

余計なとりつくろう前置きも無い

「にゃあ」で総て済ませることが出来る





今回はこの辺で・・



読み返すと、以前の「憂鬱なカラダ」の内容も、
同じような身体のバランスの話・・
まあ今回はそれを掘り下げた内容なので、良しとして下さい。

2010年3月23日火曜日

ビッグ ドリーム

久しぶりに空を飛ぶ夢を見た。


乗り物は2メートルにも満たない小型の
プロペラの付いている飛行機で

ぱらぱらと回るそのプロぺラの軽い音は
壊れそうな気配が漂っている。




前置きは忘れたが、私はその飛行機に乗り
エンジンをかけふわりと飛び上がった。
(飛行機なぞ現実では運転できないが
夢の中では全能であった)

機体は100メートル程の高さに一気に上がり
眼下には見たことのあるような無いような
近未来な巨大ビルが立ち並び、
夕焼けに染まっていた。



おぼつかない機体は風に押され、又さらに上昇する。

数100メートルの遥か下には濃紺の海が
大きく広がっており、沈没した船の黒く錆びた艇首が
いたるところから突き出ている。

その沈没船もどれも巨大で
突き出た艇首に手が届く程の
山のようなサイズである。

それが広大な濃紺の海上の
いたるところに突き刺さっていた。




・・・・・・・・




実は寝る前に、東京スカイツリーの写真を
ぼんやり見ていた。

どうやらその印象が少なからずにも
夢に出たようである。

(ちなみに現在のツリーの高さは
300メートルを超えたとのこと。
最終的にはその倍にはなる予定のようである
・・すごい)



夢は時折、一般的に非常識であったり
非日常的な壮大な展開が起こる。

どうも冒険や、スリルを求める傾向は意識の深くにある
「全能意欲」の現われなのかもしれないと思う。

この「全能意欲」というのは
「思うように何でも出来る事への憧れ」という意味である





「ヒトとサルのあいだ」著:吉田脩二(文藝春秋)を読んだ。

赤子は母のお腹の中では、自ら欲するものは無く
全能感に包まれているという。

そして出生と共に全能感は失われ
その記憶を求めるように、常に母体にいるような
周囲の世界との一体感を希求してやまないとある


つまり何か一体になれるものを
ヒトは常に探しているという

それは他人と共感することだったり
趣味に浸ったりすることもそうだろう
踊りも音や空間と一体になることでもある・・


しかし当然ながら全能感はなかなか
母体程の満足の形には至らない

しかし人は一体となれるものを求めるのである。




話は変わる




この世の中には、微生物、植物や動物
ヒトなど様々な生命体がある

生命の誕生から、様々な環境の変化に
対応し適応し姿を変え
それぞれは今日の姿として存在してる

その形はおもしろいほど多種多様である


現在の生活において、生命体の安全が
事故でもない限り、確実に保障された
生活環境下では、基本的に外見的
内面的にも進化の必要は無いだろう


変わらなくとも生きられる


しかしヒトが限界に挑み、冒険をし
危険に立ち向かうなど、その命の危機へ
向かおうとする強烈なエネルギーは
どうも無意識下での生命体として、
大きな進化を求めている姿のように思えてくる。

つまりそれは、我々生命体が
完成をしていない現われであり

社会対応の出来ない深層の意識は
最高であった全能の記憶を求め、進化すべく
生命危機に陥るリスクへと挑むことに思える

(冒険には至らないまでも、傾向として、
人は出来ないことをやろうとするが
それはヒトとして、今を生きる上での
自然な意識の働きなのかもしれない)



現在一般的に我々は全能になるために至福に至るため
ヒトと一体になろう、社会と一体になろうとしている

しかしその行為の先には赤子が母体の中にいるように
泣くこともなく全能感につつまれる未来があるのだろうか・・

もちろんこのヒトや社会との一体化は、自分も求める所である
しかしヒトへの依存は、自然環境をことごとく見失う

つまりはもっと大きい括りでの一体感としてヒトとつながる事
社会とつながる事としてとらえる必要があるだろう




・・・・・・・

横浜にドヤ街と言われる寿町がある
ドヤとよばれる簡易宿泊所が立ち並ぶ地域で
生活保護者、日雇い労働者が多く住む一帯である

その町のイメージアップに、アートと町をつなげようと
寿オルタナティブ・ネットワークが立ち上がり
2年前より活動が始まった。

ダンサーの山田うんさんの紹介のもと
総合プロデューサーの河本さんに
町を案内してもらった。

宿泊施設は2~3畳で風呂トイレ共同値段は
確か一泊2200円。一月なら66000円になる。
(宿泊費、もしかしてもう少し上がっていたような・・)

この値段ならもっと良いアパートはあるが
諸事情があったり、保証人のいない人たちは
生活保護の支給があってもなかなか普通のアパートを
借りることは難しい。

建物も古く、人もたむろをし、日本の町という感覚ではなく
確かにアジア圏の途上国の印象もある。

しかし覗いた数箇所の宿泊施設内は
手を加え明るいイメージになり
アート作品の展示も施設の一角にはあり
閉ざされた町は変貌の輝く兆しがある。



ソケリッサ!のおじさん達が
この町で踊ることを想像した。





ヒトが踊り、町が踊り、社会が踊り


そして母体の大地が踊る

















本日はこの辺で・・





※「ヒトとサルのあいだ」著:吉田脩二(文藝春秋)

 この本私は好きです。

後半、興味深かったのが、農耕民族として生活している上で
狩猟民族との意識の差が相当違うことがわかる所

見ている景色が大きく広がる著者の視点はすばらしい。
著者は精神科医、画家と言う肩書きです。


※山田うんさんHP
 http://www.yamadaun.com
エネルギー溢れています。


※KOTOBUKIクリエイティブアクション
 http://kotobuki08.exblog.jp/9760546/

アーティストやクリエイター、プロデューサーらをはじめとして、
様々なかたちで文化芸術に携わる活動の担い手たちが、
日本三大ドヤ(簡易宿泊所)街のひとつである
横浜・寿町エリアを舞台として活動する試みです。

2010年2月10日水曜日

原始力

「サルが人間に進化して、一番最初に話した
言葉は何でしょう・・・?
うー あー・・・きっとそんな感じでしょうね・・・・」 

これはソケリッサ!作品中の台詞である。


さて人間の最初はどんなものだったか想像する・・・

通説ではアフリカで生まれ、その後ユーラシアへと渡ったという
地図も無い時代に全く情報も無い場所へ歩き出す・・

それにしても他の動物のように牙も無く、角も無く、身を守る
硬い甲羅も無く、速い足も、木登りも容易ではない人間は
いったいどのような生活をしていたのだろうか・・

とにかく何も情報の無い世界が広がっている

始めてみる猛獣がいきなり現れることもあっただろうし
自然災害、カミナリ、地震なぞ腰を抜かしたかもしれない
その状況の暮らしは、想像以上に恐怖に包まれていたと思ってしまう

人間も増えてくれば当然安心と共に、不安も増える
どこまで信頼関係は存在したのだろうか

又、死を受け入れることができたのだろうか・・

とにかく人間は我が身を守るために武器を作り(それも必死で)、
コミュニケーションにおいては危機に直面した獣のように雄叫びをあげ
強烈なエネルギーで身振り手振り行い、その景色はすさまじい
狂気なモノであったのではないだろうか・・

仮に秩序もなく、又冬場に狩が出来なければ
死を恐れ生きるために平気で食べ物を奪ったり
傷つけあう事もあるだろう・・

穴の開けられた頭蓋骨が何体も見つかり
ネアンデルタール人の脳が取り出され食べられていたのでは
ないかという説がある。もちろん呪術的意味合いとも取れるが
その印象は理性でしっかり抑制されている
現代の人間と同じとは考えにくい



ロバート・アンドレイの「狩をするサル」という本を古本屋で見つけた。
(1976年に発行現在は廃刊、ちなみにこの時代、なんと
きっぱり地球の温暖化はありえないと作者が断言している手記がある
・・今ほど注目されてなかったのがよくわかる)

さてこの本の中で、衝撃的な文章がある。

アメリカの人類学者、コリン・ターンブルがウガンダ北東の
山岳地帯に住むイーク族の研究を行った手記があるのだが
その内容は飢餓状態において人間に宿る狂気が記録されている

イーク族は網を使い、仲間と協力し獲物を追い込んで狩をする
狩猟民であった。しかし、独立したウガンダ政府から狩猟場を
動物保護地区へと指定され 狩を禁じられてしまう。

政府は彼らに作物の種を給付し、穀物の栽培方法を

指導したりしたが 、やすく農作業に飛びつくことも出来ず
わずかな努力も旱魃(かんばつ)
に見舞われ彼らは人と人、夫と妻、親と子で争いあうようになる

そこでのイーク族の語りがある
「・・子供は年老いた両親同様、役に立たぬ厄介者だ。
自分で自分の面倒が見れない者はすべて他人に負担をかける
有害な存在である・・」

彼らは家族の絆などばかげているとみなす。

イーク族の母親が水場のそばに赤ん坊を置いたとき
ヒョウがその子をさらってしまった。
そこで母親は子を養うこともなくなり厄介払いが出来たと喜ぶ
さらにこの付近に満腹になって寝ているヒョウをしとめれば
獲物にありつける絶好の機会だと・・

そこで男達は眠っているヒョウを見つけ、殺して調理して食べた。
半分消化された子も一緒に。

又ある母親の赤ん坊が這いながら、焚き火に近づいた。
周りの男達は息を呑んで見守っていた。赤ん坊が焼けどをおい
悲鳴をあげると男達はどっと笑った。
母親は男達を楽しませたことに満足し

その子を手もとにひきよせた 。
飢餓は恐ろしい。

その後村から数マイル離れた場所に政府の救援施設が設けられ
食料の援助が受けられるようになる

村から食料を取りに行った者は、帰り道でその食料をくりかえし
吐くまで食べ、仲間に分ける量を少しでも減らそうとした


・・・・・

もちろんこれが特別な状況における人間性の総てと結論付けることは
避けるべきではあるが、ターンブルは、自己中心的妄想だけが
真の人間特有の性質ではないだろうかと考える

この内容に付け加えたいのは、イーク族は、単に飢餓に陥り
温厚さを失っただけではなく狩猟生活を奪われた伝統の消滅
そしてプライドを失ったショックの影響は計り知れない
それらは彼らの変貌の要因と関係無いとはいえないだろう

とにかく人間にはいとも簡単に落ちていく弱さがある
そして、狂気を持ち合わせている



我々の今があるのは武器を手に入れたからである。

先人が生きるために「思考」「言葉」「道具」を創り出した
それらは同時に硬い甲羅になり、逃げ足になり
我々の身を守るものとしても活用できる優れた性質を持つ。

人間が生き抜くために創り出した「思考」「言葉」「道具」
の持つ力は当然驚異的である

そこにはもはや手放せない身体の機能としてゆるぎない存在感を持つ

ちなみに個人携帯やパソコンを他人に覗かれたくないのは
おそらく思考を覗かれることであり、自分自身と直結しているからである。
道具は武器、身を守る身体の一部化としておそらくまだまだ進化するだろう

又、このブログも自分の思考を正当化して、
言葉で身を守っていると言えばそうなるのである・・

・・・・


たまたまであるが、踊りを踊るとき、言葉を使わず
道具も持たず、身体感覚で動く。 



踊りとは、人が生き抜くために創り出した武器を総て放棄したとき
そこに何が生まれるのか・・ということなのだろうか?

いや。説明するとどうもかっこうよく
聞こえるようにするのがいやだ



あれこれ言わず、単に人前でわが身をさらけ、痴態をみせる、弱弱しいもの
と言いたい。








今回はこの辺で

2010年1月29日金曜日

喜ぶカラダ

新年明けましておめでとうございます。


年明けから連続していた舞台もひと段落
やっと年明けのようで、ほっと一息・・


ソケリッサの話から


今年は年始早々練習があり、終了後に
メンバーと初詣に行き一年の幸せを願い、皆で手を合わせてきました。

現在のメンバーは5名。平均年齢60才手前くらいでしょうか、
神前にて無骨な手を合わす横顔を盗み見て
皆何を願っているのかとつい想像します。

おみくじも引きたかったのもあり、
さい銭は皆で200円を投入し、神前にて手を合わせました。
取引的思考が働き、金額が少ないと、ご利益もそれなりと
つい思ってしまいますが・・
ひいきは無い(はず)。

1月16日浦和大、1月24日岐阜県多治見で踊ってきましたが
すっかりたくましく人前にて表現をする、おじさん達を見ると
その懸命な姿は輝き、生命エネルギーを感じます

物質的な平等は無くとも、心が豊かになるということは
誰も皆平等に分け与えられている自然的要素なのでしょう

さておみくじを引くと3名が大吉、後は吉や中吉といった良い結果でしたが
そこに一喜一憂することも無く、おじさん達は平然としていました。
質感の無いものには左右されないのか、散々神頼みをして
上手くいかなかったからなのかよくわかりませんが
簡単には揺れないようです。

ちなみに無感動では無く、人前で拍手をもらった時は喜びを
感じているのが 強く伝わり、子供達の前にいると
皆目じりが下がります・・

やはり感覚にリアルに響くものには本当に素直な反応です。

返せばソケリッサの最初の公演が2007年、今までのその約3年の間で
初期メンバーのおじさん達とはもう10回以上も共に人前にて踊り
緊張、感動そして喜び等の感情を共感してきました。

良くあるハリウッド映画で、苦難を共にした主人公とヒロインが
恋に落ちるようなシーンがありますが、苦難を共にしたおじさん達との
絆は、始めに比べ数倍強いものに変わりました。

・・言うまでも無く恋に落ちようとは思いませんが。



人間、お互いが共感し、感情を共有することの
重要性をひしひしと感じてしまいます。

おじさん達は帰って家庭があるわけでもなく,友達付き合いが
頻繁に無い場合 、ほとんど他人と話す機会ない日常のおじさんもいます。

日常に 大きな変化が無ければ、同じ話を繰り返してしまう気持ちも
良く解り、毎回初めてのように聞く事は必要であると思います。

まあ、あまり繰り返しだと「では踊りましょうか」
と流れを摩り替えてしまいますが。



ソケリッサの今年の目標は、夏の東京、大阪での舞台公演、
秋の屋外パフォーマンスを軸に、学校や施設、企業訪問での講演、
ワークショップ等、行いたいと思っています。

あくまでも予定なのですが、流れを楽しみにしたいと思います。

それにしても毎年ながら、たくさんの人と知り合い
自分や活動に対し、本当に良くしてくれる事に感謝します。

引き続き皆さんのご協力の下そして共に進んで行く事が、
自分達の強い励みになります。


本年もいっそうの御愛顧よろしくお願いします。





今回はひとまずこの辺で・・