2015年1月27日火曜日

悪人正機

昨年末より月1度のペースで恵比寿にあるクリエイティブスペース「amu」において
「いのちの集合知をつくる --アート、精神ケア、現代宗教からかんがえる」という講座が開催されており、先日24日に参加をしました。前回に続き二度目の参加。毎回変わるテーマの視点より、生命(いのち)を考察するというイベント。

今回のテーマは<現代宗教「悪人を生きる」>ということで浄土真宗僧侶の大來尚順さんに、親鸞「悪人正機」から世の中の善悪、人間と宗教のあり方についてなどを学び、参加者と意見交換。
前回に続き、又強く自身に向き合う機会でした。

「悪人正機」とは・・悪人を救えなければ、善人を救うなどは出来ない。という浄土真宗の思想。
ただこの時代の悪は現代とニュアンスが違う。

親鸞のいた鎌倉時代の辞書「塵袋」(ちりぶくろ)によれば、悪人とは穢れた、汚い身分のものということを指しており、「えた」などと言われる身分の者、主に非人(見た目は僧侶だが僧侶らしからぬ行動をするもの)、物乞い、清め(汚れを掃除する職のもの)、といった身分の者を指し、差別用語でもある。また、悪人は自力で修行を積むことができない身分としての存在であり「悪人正機」とは、そのような他力本願な身分であっても、阿弥陀仏の救済の対象となり救われるという親鸞の説いた教えである。

まず感じたこと。悪人といわれる存在から、その時代の持つ特性、景色が見えてくるのだろう。言い換えれば、我々が良きとしているもの、価値を持つとされるものが見えてくる。


・・(あくまでも自身の感覚として)この世の全ては、元々は一つの塊(かたまり)だったと思っている。他人の驚くような狂気な行動、考え方などが、自身と全くかけ離れたものであっても、自分の中には0の要素ではない。そう思っている。明日には180度違う人生になるかもしれない。
私には当全、悪はある。とにかくまずは自分の中にある悪を認めること。自分の中にある悪とは何か。自分の思い込んでいる悪とは。
それが「悪人正機」の意とまず捉える。

表現はそこから始まるはず。


最後に聞いた言葉。
「宗教、(思想)は個人のものと考えるのが良い」とのこと。
集団化、組織化することで生まれる派閥により、個を見失う傾向を感じる。
人は脆い。







いのちの集合知をつくる

――アート、精神ケア、現代宗教からかんがえる

2015年1月24日土曜日

「自由になる」ということ



私の中の「自由になる」という言葉の印象は、人間の作り出した制約や、個々の縛りの消耗から解放されることだと思っている。・・それは自分自身がこの世の中の制約に巻き込まれ、日々追われているという証拠。仏経で言うところの苦の輪廻のような感じで、きっとそこにいれば何時までも同じところを抜けられずにグルグル回り続けるだけだろう

別の視点で捉える
重力に負けず、空へ延びる木や草。やっとの思いで懸命に立ち上がり、満面の笑みを見せる赤ん坊のように、この星の自然が与えるシンプルで偉大で普遍的な制約を感じ、そこに向かって自由になろうと立ち向かう。その制約を超える事は、簡単ではないけど、越えようとすることは生きていることを実感できる喜びがあるように思える。

人間の作った制約は余りにも難解なもの。きっと人間自体を信用しなかったからじゃないかと感じる。

2015年1月23日金曜日

恐ろしい事

映像など見る。

経験上、触れたことのないモノに関しては意志を持って留めようとしない限り身体に響いてこない。触れるとは、質感、その場の匂いや、気温など、身体感覚を通して対象を目の当たりにする事。
そこで、喜び、戸惑い悲嘆など自分の感情が大きく動けば動くほど強烈な記憶となって身体に残る。幼いの頃の記憶で残っているのは、母親の背中に揺られ山登りをして嬉しかったことや、野犬に追われ恐ろしかったことなど自身の感情が大きく動いた事など。
物心付いてからも強く残っている記憶はそう。その記憶に対象が、多少なりともリンクするものは身体に響いてくる。近年、目の前にあるものはどんどん流れようとする、触れたものでさえ留まらずサラサラ流れていく状況が恐ろしい。心や感情を動かさなくなれば、いざリアルな景色に触れても麻痺をして何も感じない。

死は今までに何度か触れた。それは最強な悲しみ。
目の前で殺害されそうになっている人を見過ごすことに抵抗を感じる。
自業自得だどうのこうのの前に私はとにかくそう思う。