2009年4月30日木曜日

先生道

小学生の頃

大きな声で自分の名前を言うと、「元気がいいね。」と先生は褒めてくれた。
自己紹介ではいつも誰よりも一番大きな声で名前を言うようになった。

その後中学に上がり、入学式当日、大声で自己紹介をすると、
「もう少し静かに。」と担任の先生に言われ、クラスの皆に笑われた。
もっと中学生らしく、とのこと。

らしくとは何か?説明して欲しかったが、
聞くと笑われそうなのでやめてしまう。


さて今回は表現について

踊ることは、自分自身の思いや、考えを外側に形にし、肉体に表す、
そしてそれに触れた観客の反応があって自分自身の存在を確かめる
ということであると思う。これは表現手段の一つ。

舞踏家、芸術家でなくても、身振り、動作、表情、会話、
字を書くのも全て表現、人は皆様々に表現している。(この文章も同じく、
どう形にしようかと現在も思考しながら文字にしているのである。)
おのれの内面的な事、主体的な事は、外面的に形象化することに
苦悩してしまう。しかしながらその舞台、ハードルが大きければ大きいほど
達成後に得るものは大きい。比例し、得もいえぬ熱いものが身体に満ちる。

表現は、自分自身の存在を確信できる。
当然、とてもデリケートであり、否定されれば人はつらいものである。

例えば自分の場合、舞台公演がある。そして演出、振り付けをこなすので
あれば、綿密にテーマをもとに動きを熟成し、細部にいたるまでこだわる。
もしインタビューがあればその踊り全てに至る経過や理由まで説明できる
程をめざす。(説明しないが)生業であるが故、当然だが、
とにかくゆるぎない芯を生み出す作業に没頭するのである。
そこに初めて自分の表現に一貫した説得力を生じさせることが出来る。

否定を恐れ、保守的になればいとも簡単に”表現という型”にはめてしまう
(はまってしまう)のではないだろうか。
つまり多人数の良いと言った事は、いいものだと思い込み刷り込まれ、
熟成を行なわない。又、気が強い人間の表現を抑圧的に押し付けられて
自分の表現だと勘違いしまっている場合もある。
そこに慣れるといとも簡単に、その本人の持つ心的状況、
過程や志向も全て閉ざしていることに気づかないという状況に陥ってしまう。


自分は踊りを子供達に教え、年配者に教え、ダンサーに教え、
時にタレントに教え、「ソケリッサ!」のホームレスのおじさんに教える。

生徒は講師の振り付けを踊る時もあれば、
自分で振りを作るときや、自由に踊る時もある、
振り付けや言われた形ではなく、
自分の感覚の度合いがふえる動きになるにつれ、癖やゆがみが見え始める。

ゆがみとは身体はもちろん、特徴的性格や、志向を差す。
ゆがみは皆持ち合わせている。
いつも照れて肩をすくめて踊る子供や、常に指先が伸びなかったり、
常に中腰の女性、必ず目を閉じるおじさんや、やたら転がるおじさんもいる。
いわゆるそれこそが、自己表現の入り口であり、
ついつい目が離せなくなってしまう。

癖やゆがみの強い人間こそ、やはり価値観を揺らし
世界を切り開く逸材に思えてくる。
心的状況や思考をさらけ出せることは、
自分だけのものを創り出す力。既製の型を壊す力である。
逆にゆがみを隠したり矯正したりすることが、緊張、苦悩、
停滞の原因になっている人もいるのではないだろうか。

人と比べることに時間を消費せず、
素直にゆがみを突き通している表現は、人の心に響く。



とにかく人の上に立ち、教えるという事は容易ではない、
我が学生時代はどうだったのか思い返す。
・・・正直、学校での勉強の記憶は薄い。
もちろん淡々と授業を受けている記憶はあるが、
強く覚えている出来事は、人との関係が、壊れたり、深まったり、
そんなことが多い。学生時代に留まらず、人と人との関係や、
つながりは、生きるうえで常に必須科目であるように思える。

教えるという事は常に生徒を観察し、本質に向き合い続ける連続である。
指導者と生徒の関係やつながり、表現を見せる相手との関係やつながりは、
誰に教える場合でも必要であり、避けては教えられないのであろう。



先日、足の付け根を痛め、歩けなくなっていた
「ソケリッサ!」メンバーのトミさんが、
練習に顔を出した。まだ足を引きずる状態で、見学のみであるが、
良くなってうれしい。

トミさんは当然ながら自分より遥かに過酷な人生を送ってきた、
人生の先輩である。68才のトミさんは、
いつも自分を「アオキ先生」と呼ぶ。
とても信頼してくれているのがその度伝わる。


精一杯「先生」でいつづけようと思う。



今回はこの辺で・・

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

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