2012年3月27日火曜日

親のための「子供の踊り」について ~判断の基準~

道を歩くと、当然ながら他人とすれ違う、この人とはもう会わないのか、それともすでに数度会っているのか、その人生にはどれほど関与しているのだろうか・・気が付くとそんな事を考えている。知り合いと似ている雰囲気の人がいれば、人間はだれもが決まった数パターンの顔に分類できる、とシュタイナーが記していたのを思い出す。
居酒屋で飲むおっさん達の皆決まりきったような会話でなく、自由溢れる子ども同士の会話。飼い猫のハナは私の踊りを見て、どう思っているのか。人間はこれからどこまで進化していくのか。動物を釘付けにするおどりを踊れたら、革命だろう・・。などと次から次へ頭の中には浮かんでくる。
人間そのものを、私は「踊り」というツールを使って解明しようとしているのかもしれない。おそらく基本的に私は人間オタクなのだろうと思う。

生物学者、福岡伸一氏の「動的平衡2」という本の巻末に印象に残る文面があったので、載せます。

どんなに科学技術が進歩したところで、人間は森羅万象の全てを理解することは出来ない。常に「わからないこと」を抱えて生きていかなければならない存在である。そのとき、私たちは「真か偽か」という科学的な議論から離れ、「善か悪か」という哲学的な判断を迫られることになる。しかし、その場合にも私たちは部分しか見ることが出来ない。そして部分の効率や幸福を求めると、逆にみんなの効率や幸福にもつながらないことも少なくないのである。では、いったい、私たち人間は何を判断基準にして生きていけばいいのだろうか。これはもう一義的に言えるようなテーマではないと思う。ただ、個人的な感想として言えば、「真偽」「善悪」の次のフェーズとして「美しいか、美しくないか」という「美醜」のレベルがあるように感じている。(福岡伸一 著「動的平衡2」247Pより)

我々人間は、物事を考えるとき、おそらくはまず「正しいか正しくないか」で決めようとするように思えます。もしくは「良いことか悪いことか」でしょう。しかしそれでは確かに行き詰るときがあります。世の中は真偽、善悪で分けようと思っても無理だと私も感じます。そこで筆者は「美しいか美しくないか」で判断することはどうかと提案しています。

はだしのゲンという漫画があります。広島の原爆で父や兄弟を失ったゲンが母親に精力をつけさせようとお金持ちの屋敷に忍び込み、庭の池の鯉を盗もうとした、という内容の漫画を読んだことがあります。これはあきらかに盗みであり、「正しいか正しくないか」で言えば、行為自体は窃盗なので正しくはありません。しかし「美しいか美しくないか」でいえば、私は美しいと思います。もう鯉をくれてやれ、といいたくなります。小学生の頃読みましたが、戦争でむき出しになる人間の本能の描写は衝撃的でした。

私がインドにいったとき、7,8歳くらいの女の子が、野の花を積んで私に売ってきました。うろ覚えですが200円くらいでした。そのくらい買って良いかな・・と思ってお金を払うと、兄弟がいるからもう少しくれと言われました。そのときはもうお金を持っていないからと嘘をつきましたが、後になってもう少しあげればよかったと後悔しています。兄弟がいるかどうか、嘘であろうがなかろうかでなく、その位の年の子どもが遊びまわることも無く、お金を稼が無くてはならない背景があります。大人に言われたか、兄弟のためにかどうであろうと、その子が積んだ花を売る行為には懸命な姿があり、けして悪の部分があろうと真偽、善悪でない感覚による判断を必要とします。

路上生活のおじさんを誘って踊るなんてアオキさんは良い人だ、とも言われますが、その言葉はあくまでも部分的な印象であり、当然私自身は自分を善人とは思っていません。もちろん法には触れていませんが悪の部分は大いにあります。悪のかけらが微塵も無い私の踊りなど、感覚的にもうそ臭いものに思えます。 映画のブラックスワンでも、主人公のナタリー・ポートマンが、自身の内に隠している悪を表に出せずに苦しみます。演出家はその悪を必要としているのですが、欲望を抑えることが正しいと思う彼女は崩壊へと向かいます。表面的で美しいダンスの映画と思って観るとグロテスクで驚くかもしれませんが、表面的なお姫様ではなくリアリティある美しさを今改めて考えることが必要であると感じました。

人間の生活には想像以上に感性の重要性が密着していると思います。白黒で説明できない世の中の構成要素は「美しいか美しくないか」というような「感覚」での物事の判断をもう少し有効にしていくことが、これからもっと重要になるのではと感じています。

子供達と、それぞれの「美しいもの」を探してみたいとおもいます。
人間オタクはまだまだ続きます。

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