2009年10月6日火曜日

刺青のある景色3

前回よりの続き・・・



つづいて作業場。
そこでは市場に出回る日用品生産の一部を加担している。
空間には他にも作業用個室や、大型の洗濯機数台
工業用具が壁に並び、自営作業、職業訓練も兼ねた
工場のような場所である。

扉を開けて中に入ると、
ずらりと30人程(に見えた)の収容者が作業台に座り
黙々と製品を組み立ている姿が目に飛び込んできた。

5人掛けの作業用長机に隣と均等に間隔を空け座り
皆同じ姿勢で手元を見つめ、教官の監視の中
もちろん私語も無く、余所見をすることも無い。
筆記用具内部の部品を組み立てる作業に見えた。

蒸し暑い中で作業を行なっている。

扇風機がゆるやかに回り、湿度の高い
(夏場もクーラーがないように思えた)
けして快適とはいえない空間で
黙々と作業を行なう収容者の前を進んだ。

その空間は独特であり、緊迫した舞台上に
いるときの感覚に近いものがある。

当然長袖では、蒸し暑く大変であるため、
上半身は白いTシャツか白いランニングシャツで作業を行い、
頭髪は、皆五分刈りの坊主頭だ。

収容者にはかなりの割合で、肩から腕にかけて刺青(入れ墨)があり。
犯罪と刺青の関係・・等、部屋を出ながらぼんやり考えていた。




施設の説明、少年犯罪について話を受け、
質疑応答があり参観は終わりになる。
どのような質問にも丁寧に答えてもらえた。

そこではお金は優越の対象にならず、
洋服も髪型も規律に即した形で平等に統一されている。
当然であるが、表面的装飾をふくむ、
物質面での個人主張はまず出来ない。

毎日が規律に従った生活であり
起きる時間から寝る時間まで決められていて
余暇時間は夕食後の数時間、そこでの行動はおのおので
テレビを見る者、本を読む者、手紙を書く者などそれぞれに別れるが
基本的に管理下におかれているのは変わらない・・

又、他人との私的コミュニケーションは制限があるそうだ。
同室の者同士、お互いの罪は知らないということである・・

休日、祭日は、1日約8時間の作業などの矯正処遇は免除となり
監視の中、余暇時間が設けられている。



収容者はその制限された空間で、
どのような感覚になっていくのだろうか。


あくまでも主観だが、常に側に素性を明かさない他人がいて
周りと足並みを統一し、監視をされて生活をする状況はつらい
自分は逃げ出したくなる。


・・やはり罰を受ける場所なのである。


彼らは26才未満の若者で、社会的ルールに反してそこに来ている。
彼らの傾向は、疎外感、愛情飢餓感を持ち、せつな的に生きていて
共感性、自制力が希薄であるという。

その状況では、近くの他人と自分の関係で精一杯になり、
そこで優越を付けること、内的部分での主張に終始してしまうのが
常になるのではないだろうか・・

人はそれぞれお互いの関係を平等だと思い
心を開いたときに初めて回りに目が向く
収容者が、お互いを理解し、落ち着いて自分自身の居場所を確保し
自己を見つめ、広い世界を見つめ自分がどうありたいかと考えることは
容易ではないだろう・・

刑務所で自分の罪を心底反省し、精進し勉強に励み、
社会復帰をしようと思えるようになることは理想であるという
やはりそこで精進しようと思えるのは、教官の愛情
人間性による救出力が大きい事は明確だ。

刑務所は罰と更正が存在する場所なのである。
個人を抑圧されて、個人を開花しなければならない。

ある意味そこに、人間の持つ複雑な矛盾性が見える。


芸術に導いたとき、何が見えてくるのか・・と又想像する。


とても考えさせられた1日であった・・

家に帰り、慣れないスーツを脱いで、ふと鏡を見た。
そこには坊主頭で、左腕に刺青のある自分が写っている。

”たまたま”彼らは刑務所の中で罰を受け、私は”たまたま”ここにいる。
生まれたときは皆同じように素朴な存在であり、
”たまたま”生まれそだった環境での違いなのである・・


鏡の前で少し踊った。







今回はこの辺で・・

1 件のコメント:

  1. いつもありがとうございます。

    ナカニシです。

    「家に帰り、慣れないスーツを脱いで、ふと鏡を見た。
    そこには坊主頭で、左腕に刺青のある自分が写っている。」

    に少し笑みをこぼしてしまいました。

    昨年末、彼女もいない、仕事もない、孤独で被害者意識のある若者を主とした舞台の役を演じた事があります。

    「彼女もいない、仕事もない、夜になったらどうしようもなく孤独を感じる」

    ボクと全く変わらない人生を歩んでる若者でした。
    そんな彼が、社会に嫌気をさして犯罪を犯してしまう。

    アオキさんの言う様にボクは「たまたま」こちら側にいるのかも知れない、と感じた事があります。

    「ソケリッサ」のメンバーも、運良くアオキさんに出逢い、たまたま踊っている。
    その傍ら、たまたま死んでいくオジサン達もいる。

    「たまたま」という運命のようなチカラの中で、自分は何ができるか?
    そう、表現をはじめてからずっと考えていました。

    そして、ひとつだけ生まれた、確かな想いとしては、

    ボクは、その「たまたま」の小さなキッカケになりたいと思うことでした


    25日、はじめて踊りを観て戴けます。

    オジサン達に負けない様に頑張りたいと思います。

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